声にならない声で叫んでいた――――タスケテ…と。誰か助けてと。僕をここから救い出してと。けれどもそんな都合のよい相手は現れるわけもなく、僕の身体と心は蝕まれてゆく。足元から浸食する闇と喉元に突き刺さる毒が僕を壊してゆく。そして僕は……
―――――なにもいらないから。なにもほしくないから。だから、もう誰も僕に触れないで。
僕は籠の中の鳥だった。羽を毟られて鳴く事しか許されない鳥だった。
「…あ……」
何処にも行けずに何処にも逃げられずに、この刻まれた血の盟約に繋がれ。
「ふはははは、女神に選ばれし私は万能だ!」
繋がれ縛られ、そして。そして犯されるだけの存在。奪われるだけの存在。
刻まれた印が薄くなっていたのに気付いたのは、世界が静寂に包まれてしばらくしてからだった。あんなにもくっきりと消えない印を刻んだ証が少しずつ薄れてゆくのを。その時に気がついた。僕は解放されたのだと。蝕まれ奪われ続けた日々から解放されたのだと。
守るべき民は石になった。自分が守らなければならない者達は。そして何よりもルカン自身が『死』んだのだと。だからこの証が薄れてきたのだと。けれども。
「私は全知全能なる女神アスタルテのしもべ、女神に選ばれし者なのだ!」
今ここにルカンは、居る。自分らの目の前に立っている。アスタルテの加護を受け、再び生を受けてこの場にいる。
「…いや…だ……」
逃れられたはずだ。血の盟約からは、僕は逃げられたはずだ。なのにこうしてその姿を目にしてしまえば浮かんでくるものは、犯され続けた日々だけで。そして、恐怖だけで。
「…いや……」
また僕はこの身体を引き裂かれるの?またあの醜いモノが僕の中に入ってくるの?限界まで広げさせられ、何度も何度も貫かれて。意識を失うことすら許されずに、この身体を犯されて。犯され、て……。
「…いやぁっ……っ!」
叫んだ。叫んだつもりだった。けれどもその叫びは声にならずに。声にならずに僕はその場に崩れるだけだった。
このまま、このまま僕が。僕が、壊れてしまえば。
崩れて壊れてしまえば。そうしたら、誰にも気づかれない。
気付かれずに戦いの中で死んでゆける。
誰にも知られずに、壊れてゆくことすら気付かれずに。
壊れて、ぐちゃぐちゃになって、そして。
そして狂ってゆく僕に誰にも気付かれずに、僕は。
―――――ぼくは、ひとりぼっちで、しんでゆける。にせものらしく、だれにもあいされずに、ぽつんと、ひとりで……
「―――――ペレアス殿っ!!」
意識が消えてゆく寸前、狂気が僕を包み込む寸前、その声はした。突き刺さるように僕の胸をえぐり、そして。そして落ちてゆく僕の手を掴む、力強い腕が。その腕が僕を、引き上げてゆく。現実の、世界へと。
「大丈夫ですかっ?!急に貴方が倒れられたから…僕はっ…!」
ここは狂気の狭間じゃない。確かに手に触れられる現実だ。逃げる事の出ない現実の場所。僕は逝けなかった。逃げられなかった。優しい死という場所へは。
「…このまま放っておいてくれれば…僕は……っ!」
死ぬ事が、出来たのに――――その言葉は声として告げることはできなかった。言葉にする前に与えられた乾いた音と、頬の痛みによって。
「す、すみませんっ!で、でも……」
僕が驚く前に相手の方が呆然と僕を見ていた。一瞬自分が何をしたのか分からないという顔で。けれども次の瞬間はっとしたような表情を浮かべ、咄嗟に僕に頭を下げた。そして。
「でも貴方がまるで…まるで死にたいみたいな事を言うから……」
みたいじゃないよ。僕は確かに死にたいと思ったんだ。壊れてしまいたいと思ったんだ。もう全てから逃げてしまいたいと。何もかもから逃げてしまいたいと、そう思ったんだ。だから、それは本当の事だよ。
「…ペレアス殿…今は…今は戦っているのです…世界の未来の為に…だから」
僕の心を読み取ったかのような表情で告げられる言葉は、ひどく哀しくそして優しかった。どうしてこんな時に、そんな優しさを僕に向けるの?どうして?
「…だから、共に闘ってください…『貴方』の未来の為にも……」
ああそうか。そうか、目の前の彼は、姿は少年でも本物の『王子様』なんだ。だからこんな僕にも優しく諭すような声で言葉を告げるんだ。
「――――共に闘って…そして生きてゆきましょう」
「…クルトナーガ殿……」
「…ううん、生きてください…一緒に……」
最後の言葉はきっと。きっと哀れな僕に対する憐れみなのだろう。何も持っていない僕への。ひとりぼっちの僕への。かりそめの王冠しか掲げられない僕には、きっと。きっと誰も残らないから。僕のそばには、誰も。嘘で固められたこんな汚れた人形には。
「…貴方は…ううん…君は僕に変な事を言うんだね…でも……」
それでも僕は。僕は、本当は。本当は、ずっと。ずっと、誰かに救ってほしくて。誰かに助けてほしくて。誰かに気付いてほしくて。
―――――だれかに、みつけてほしかった。こわれゆく、ちっぽけなぼくを。
引き上げられる。強い力が僕の手首を掴み、そのまま現実へと引き上げられる。僕の足は地面の上に立っている。狂った迷彩色の空間じゃない、現実の床の上へと。
「…でも…嬉しかった…ありがとう……」
「―――――」
「…時間を取らせてしまったね…戦いの最中だというのに…すまない…。行こう」
「―――は、はいっ!」
驚いたその顔は僕の何に驚いたのだろうか?聴きたいと思った。もしもこの戦いに生き残れたら聴きたいと、そう思った。
―――――貴方がそっと。そっと、微笑ったから。
綺麗だと思った。綺麗で、そして。そしてとても哀しかったから。
貴方がとても哀しかったから。だから僕は。僕は理解した。
この胸に芽生えた思いの名前を、嫌というほどに理解した。僕は。
…僕はどうしようもないほどに、貴方に恋をしている……
醜い男だった。ルカンと名乗る元老院の男は。自分は女神に選ばれし者だと高々に笑うその顔はひどく歪んで醜かった。その不気味な顔を見ているのもおぞましくなって視線を他へと廻らせたら、青ざめた顔の貴方がいた。誰にも目の届かない柱の奥で、真っ青に震えている貴方がいた。だから僕は気になって、どうしようもなく気になって貴方の元へと駆けだしたら…その身体が崩れ落ちていって……。
掴んだ手の先に在った貴方の顔は、まるで死人のようだった。その瞳に『生』は何処にもなくただのぬけがらだった。体温が残っているだけのぬけがらだった。
貴方を取り戻したくて、けれどもどうしていいのか分からなくて。気付けばその頬を叩いていた。貴方の瞳に僕を映してほしくて。空っぽの瞳に僕を映してほしくて。僕はいつの間にこんなにも貴方に捕らわれていたのだろう?いつの間に僕はこんなにも貴方に恋をしていたのだろう?貴方がそっと微笑ってくれた瞬間、僕は。僕は、どうしようもなく泣きたくなった。そう僕はどうしようもないほどに、貴方に恋をしていた。
「大丈夫ですか?ペレアス殿」
襲い来る敵を倒し、二人で前へと進んだ。考えたい事はたくさんあったけれど、今は生き残ることだけを、戦いに勝つことだけを、考えた。戦って、戦い続けて、そして。そして。
「…ああ、大丈夫だ。まだ戦え――――っ!!」
貴方の歩みが、止まる。まるで機械仕掛けの人形が止まったように。そう、そこに居たのは……。
「…ふふふ、久しぶりですね…ペレアス殿…」
醜く笑うその顔が。舐めまわすように見つめるその視線が。舌舐めずりでもしそうなその唇が。その、全てが。
「…ル、…ルカン殿……」
「―――残念ですよ、貴方との再会がこんな場所とは…ここでは貴方のその身体を楽しむ事が出来ませんからね、ふふふ」
その全てが、汚い。汚くて、醜くて、そして。そして……。
――――助けて、と。助けてと、ずっと叫んでいた。声にならない声で、ずっと……