ぬけがら<後編>

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もしも、もう一度世界が綺麗なものになったならば。この視界に映る世界が迷彩色でもモノクロでもなく、綺麗な色を映しだしてくれならば。そうしたら。そうしたら、僕は……。


――――微笑いたいと思った。一緒にただ、微笑えることが出来たならば、と。


舐めまわすような視線は、まるでざらついた舌で全身を嬲られているようだった。どろどろの唾液で全身をしゃぶられて、そして何度も貫かれ麻痺した器官にまたアレが捻じ込まれて。嫌だといっても許してくれずに、何度も何度も何度も貫かれて。
「それともこんな所で、楽しみたいのですか?貴方は―――」
嫌なのに、もう嫌なのに。誰も助けてはくれなくて。誰も僕に気付いてくれなくて。誰も僕を救ってはくれなくて。壊れるまで僕は犯されるだけで。壊れるまで、ずっと。
「黙れっ!!」
そう誰も僕を救ってはくれなかった。誰も僕には気付いてくれなかった。精液まみれの汚い僕を。そんな僕を。誰も、僕を…。
「何ですか貴方は?そんな子供なのに、貴方もこの身体を試してみたく――――ぐはっ!!」
誰も僕を、救ってはくれなかった。誰も僕に気付いてはくれなかった。誰も、そう。そう君以外……。


視界が紅い色に染まる。真っ赤に、染まる。真っ赤な飛沫で染まってゆく。
「――――この方を侮辱するのは僕が許さない」
ぐちゃりと、つぶされたような音と。肉がそげ落ちてゆく生臭い匂いと。
「もう言葉を発することすら…貴方のようなモノには必要ない」
悲鳴にすらならないうめき声と、そして。そして肉体だったモノが飛び散った。


―――――あれだけ僕が怯えていたモノは、まるで玩具のように粉々に潰されていた。


そっと手が、伸びてくる。漆黒の竜はその姿を少年に戻し、僕の前に立つ。綺麗な瞳のままで。穢れた僕を映した瞳は、綺麗なままで。
「…ペレアス…殿…僕は……」
その瞳が僕よりも哀しかったから。映しだされた僕の姿よりもずっと。ずっと、哀しかったから。だから、僕は。
「…ありがとう…クルトナーガ…ありがとう……」
伸ばされた手にそっと。そっと指を絡めてみた。柔らかなぬくもりが伝わる指先を。静かに広がる暖かいものを。それはひどく。ひどく、優しかったから。
「…あり…がと…う……」
堪え切れなかった。堪え切れずに零した涙の先には、僕よりも先に。僕よりも先に、君の方が泣いていたから。



目の前が真っ赤になった。そして生まれて初めての感情が僕に生まれた。それはひどく醜くひどく本能的でひどく怯える感情だった。けれどもそんな怯えすらも限界を越えるほどの怒りが襲ってきて止められなかった。
気付いた時には竜の姿に化身していた。自らの気を抑える事が出来ずに、剥き出しの感情のままその醜い肉の塊をバラバラにしていた。ただこの醜いモノをこの世界から抹殺したかった。貴方を苦しめているこの醜いモノを。この汚らしい肉の塊を…。
「…僕は…僕は……」
怖かった。本能の赴くまま変身をし、殺戮を犯すのは。人を殺す事も、血の匂いも。僕にとっては怖くて堪らないものだったのに。それなのに。それなのに、僕は。
「…人を…殺したのに…僕は……」
怖かったはずなのに。それなのに、今は。今はその感情よりも、もっと。もっと違うものが自分を支配している。恐怖よりも、もっと。もっと違うものが。それは。それは…。
「…僕は…そんなことよりも…貴方が……」
何よりも綺麗で、そして何よりも哀しかったのは。貴方が何よりも哀しく見えたのは。それは、貴方が何よりも傷ついていたから。誰にも気づかれることなく、誰にも助けられることなく、貴方が。あなた、が。
「…貴方がこんなにも…こんなにもひどい目にあっていたのに…気付けなかった事が……」
あなたがかなしいことが、哀しい。あなたがくるしいことが、苦しい。あなたがつらいことが、辛い。――――僕は貴方が哀しいほどに綺麗な事が、何よりも哀しい。


どうして僕はこんなにも子供なのだろう。どうして僕はこんなにも無力なのだろう。どうしてこんなにも僕は。僕は何もできないのだろう。こんな時に貴方の為の言葉が何一つ出てこなくて、ただ。ただこうして泣くことしかできなくて。貴方の方が被害者なのに、僕は何も出来ずに泣くだけで。子供のように、泣くだけで。


―――――僕の腕がもっと大きかったならば、貴方を包み込む事が出来るのに。僕の背中がもっと広かったならば、貴方を護ることが出来るのに。


こんな僕でも、出来る事がありますか?
「…クルト…ナーガ……」
貴方の為に出来る事はありますか?
「…泣いて…くれるんだね……」
僕が貴方の為に出来る事は、ありますか?
「…こんな僕の為に…君は……」
貴方の笑顔の為に、僕が出来る事は。


「…君は…泣いて…くれるんだね……」


視界が滲んで貴方の顔がよく見えない。見たいのに。貴方の顔が、見たいのに。少しでも貴方の気持ちの破片を見つけたいのに。それなのに、見えない。涙が止められなくて、止める事が出来なくて、見えない。
「…あり…がとう……」
頬にそっと触れるものがある。暖かいものがそっと触れて。触れて、零れる雫を拭ってくれた。そっと静かに、拭ってくれた。
「…あり…が…と…う……」
その先は二人言葉にする事が出来なかった。絡めあった指先が気付けば互いの背中に廻り、きつく身体を結びつけていた。そこから伝わる体温だけが世界の全てになった時、ふたりで。ふたりで声が枯れるまで泣いた。何に対して涙が零れるのか分からなくなるまで、ふたりで泣いた。



――――――おかしいね、君が泣いてくれたから。君が先に泣いてくれたから、僕も泣けたんだ。声を上げて、泣けたんだ。全ての闇を吐き出すように、声を上げて泣けたんだ。


どんなに辛くても零れなかった涙が。どんなに苦しくても吐き出せなかった叫びが。溢れて零れて、そして僕から流れてゆく。君の腕の中で、僕という存在が浄化されるような気がした。君の涙が僕を綺麗にしてくれる気がした。君という存在が、僕の穢たないものを全部。全部、取り去ってくれるような気がした。


――――不思議だね、何だか僕は君といると、『僕』という存在が満たされている気がするんだ。ぬけがらじゃなくて、ちゃんと。ちゃんとここに僕がいるような気がするんだ。


視界が滲んでいるのはきっと一緒だから。だから構わなかった。構わずに、その瞳を見た。見つめた先にある僕の顔がひどく。ひどく満たされているように見えたから。
「…ペレアス…殿……」
それはきっと。きっと滲んだ視界の見せた幻じゃない。きっともっと。もっと別のものだから。
「…殿はいらないよ…クルトナーガ…君には名前で呼んでほしい…」
「…じゃあ…その…ペレアス……」
不器用に呼ばれる名前の響きが、こんなにも愛しいものだとは思わなかった。こんなにも満たされるものだとは思わなかった。こんなにもどうしようもなく大事なものだとは…思わなかった。
「――――はい……」
その響きをそっと胸に沈めて、そのまま。そのままどちらともなく唇を重ねた。それはひどく不器用で、ひどく幼いキス、だった。



―――――貴方がそっと。そっと、微笑ったから。


名前を呼んだら。貴方が微笑った。ひどく綺麗な笑顔を。ひどく透明な笑顔を。ひどく満たされた笑顔を僕に向けてくれたから。その笑顔を瞼の裏に焼きつけようとしたら、自然と唇が重なっていた。どちらともなく。互いが導かれて、そして。そして自然と触れ合った唇の先にあったものはとても優しくて切ないものだった。
「――――行こう、まだ戦いは終わってはいない」
瞼を開いた先にあった貴方の顔に淋しさは漂ってはいない。その瞳は空っぽじゃなくてちゃんと僕の姿を映している。ちゃんと僕を見ていてくれる。
「はい、ペレアス。一緒に」
「一緒に…行こう」
それはぬけがらなんかじゃない。確かに貴方はここにいる。――――ここに、在る。


「――――戦って、そして。そして一緒に…生きていこう」


重なり合った言葉はどちらが告げたものだろうか?けれども、もう。もうそんなことはどうでもよくて。どうでもいいんだ。大事な事はもっと別の場所にある。もっと別の意味がある。


…そうだね、ふたりがそう思った事が…それが…大事なのだから……。


空っぽだった器に注がれたものは。それはひどく不器用で、けれども何よりもひたむきで純粋な、ただひとつの想いだった。