思い出す事がないのは、忘れた事がないから。記憶を辿ることもなく、日々を振り返ることもない。それでも、その存在を嫌になるほどに感じているのは…もう自分の『一部』として、埋められているから。
――――子供だから気付けなかったんじゃない。気付かないふりをしていただけだ。
戦いは再び起こり、こうして自分はまた。こうしてまた望む、望まないに関わらず、歴史の中に組み込まれた。戦いの中に、組み込まれた。けれども。
「どうしたの?サザ。考え事?」
けれども、あの時とは状況は全く違う。そう、今ここにはミカヤがいる。自分のそばには、彼女がいる。
「ごめん、ちょっとぼんやりしていた」
「疲れているの?ずっと、緊張していたから」
もう必死になって捜す必要もなく、こうして手を伸ばせば届く距離にいる。こうやって、手を伸ばせば。
「大丈夫…ミカヤがそばにいれば、俺は大丈夫だ」
触れあった指先は暖かい。こうしてぬくもりを感じる事で確認する。自分の存在する意味を。自分がこうして生きている意味を。自分がこの手を護るためだけに、存在しているのだという事を。
夢すら見ない日々が続いている。記憶すら辿る事のない日々が。
振り返りもしない、思い出しもしない。だって、消えないから。
どうしても、どうやっても、決して。決して消える事がないから。
世界は静寂に包まれた。全てが停止した。アスタルテの力により人々は石にされ、こうして世界に『生きる者』として残されたのは自分たちのみだった。
「サザは、変ったね」
「そうか?」
ミカヤは時々『ミカヤ』ではなくなる。気まぐれな女神がこの身体を入れ物に使うせいで。それでも『ミカヤ』には変わりない。中身がユンヌになろうとも、目の前の相手を護ること、それが全てだ。迷うことは、何一つない。
「いろんな人と出逢ってきたせいかしら?それとも大人になったのかしら?」
繋いでいる手のぬくもりはきっとずっと変わらない。これから先ずっと。それでも以前と違うと感じるのは、自分の方が変わったからだ。自分の方が変わっていったからだ。
「ずっと子供のままだったら、おかしいだろ?」
この手を護ると決めた想いも、生きている意味も変わらないのに。なのに、変ってしまったものがある。ただひとつ、あの頃と変わってしまったものが。
「ふふ、そうね。でも何だか少し…少しだけ、淋しいわね」
それはここに在る。この心の中に、在る。決して消える事のない、自分の中に根付いてしまったただひとつの―――存在が。
思い出すことはない。だって忘れた事がないから。
『サザ、好きだよ』
耳の奥に残る優しい囁きと、目を閉じれば浮かぶ穏やかな瞳が。
『愛しているよ』
その全てが、もう。もう当たり前のように、自分の中にあるから。
――――最期に見せてくれた、俺に対する剥き出しの想いがあるから…それだけでいいんだ。
けれども、もしも。もしも、もう一度出逢えたならば。俺は一体どうするのだろう?もしも、目の前にお前が現れたならば。こうして二度と離さないと決めた手を、俺はどうするのだろうか?
繋がれている指先が永遠でないことは、きっと本当は互いが一番知っている。それでも離さないと答える彼の言葉は、子供ゆえの純粋さから来るものだろうか?それとも大人だから言える優しい嘘なのだろうか?
「貴方が大人になってゆくのを淋しいなんて思うのは…私の我が儘ね」
差し出された小さな手を取った瞬間から、私たちの物語は始まった。ふたりきりの物語が。そしてそれがずっと。ずっと、続いていくと思えるほど私は無邪気な子供ではなかった。必ず終わりが来る事を、知っていた。
「大人になっても変わらない。ミカヤを護りたいと思う気持ちはずっと変わらない」
その言葉は嘘じゃない。私を護ると言ったその言葉は。でもやっぱり、変わっていくものなの。気持ちが、想いが、変わらなくても…それでも。ずっと同じではいられない。
「ありがとう、サザ」
今繋いでいる手の形だって、もうこんなにも違う。初めて差し出されたあの日からは想像も出来ないほど、逞しい腕になっている。だからどんなにあの頃のままの純粋な気持ちでいても、少しずつ。少しずつ、ずれてゆくのを止められない。
「今はそばにいてね。そばに、いてね」
私は貴方の姉で母だった。貴方の初めての『他人』だった。貴方の初めての全ては私だったけれど、ただひとつだけ私が初めてにならないものがある。それがきっと。きっと、何時か貴方を苦しめるだろう。もしかしたらもう、苦しめているのかもしれない。それでももう少しだけ。もう少しだけ、貴方を一人いじめさせて欲しい。
「―――今は、一緒にいてね」
ふたりきりで生きてきたから。ずっとそうやって生きてきたから。それ以外の生き方を見つけるその日まで、そばにいて欲しい。
―――貴方の初めてが全て私だったら、きっとこんなにも苦しめる事はなかった。けれども、全てが私だったなら貴方は知ることは出来なかった。きっと、こんな想いを知ることは出来なかった。
ふたりきりの閉じられた空間の中でいられたら、ずっといられたならば。それはとても穏やかで優しい日々なのだろう。けれども、知ってしまったから。それ以外のものを知ってしまったら。もう戻ることは出来ない。何も知らない日々には、戻れない。
「おい、おまえたち!悠長にしてる場合じゃないぞ。また敵さんたちのお出ましだ」
僅かな時間訪れた安らぎは、突然終わりを告げる。そして再び始まる、戦いが。個人的な感情なんか捨て、今は目の前の戦いに全てを向けなければならない。その先の事はこの戦いが終わってからだ。―――そうだ、全てが終わってからだ。
「いくぞ、ミカヤ」
声にすることで、全ての私情を捨てる。今は生きる事だけを、彼女を護ることだけを、それだけを考えればいい。それだけを、願えばいい。
――――消えないから、消せないから。もう俺にとっての『一部』だから。
抱きしめてくれた腕のぬくもりも。髪を撫でてくれる優しい指先も。
その全部がこうして。こうして俺の中に在るから。俺の、中に。
一面に広がる砂漠。その砂が脚に絡まった瞬間、胸の奥から溢れてきた。どうしようもない想いが、溢れてきた。
「…ここは…そうか……」
痛みを伴う日差しと、むせかえるほどの熱。その全てが、嫌というほどに思い出させる。この場所が、何処なのかを。
「…お前と、初めて出逢った場所……」
あの時もこんな。こんな灼熱の中での戦いだった。その戦いの中で『お前』は現れた。俺を襲いかかる敵の前に立って、その剣で斬り付けた。その姿があまりにも鮮やか過ぎて、まるで幻をみているようだった。そうまるで、一枚の絵のようなそんな鮮やかなシーンだった。それは今でも瞼の裏に焼きついて、消えない残像になっている。
それから団長に新たな仲間だと紹介された。その瞬間理由のない恐怖に襲われ、わざと。わざと距離を作った。自分を護るために。けれどもそれはすぐに無意味なものとなる。その恐怖の意味に気付いたと同時に、差し出された腕のぬくもりのせいで。
「…ああ、そうか…俺は……」
今まで自分が築き上げてきたもの全てが、壊されるのではないかという恐怖。今までの自分の全てが覆されるという怯え。けれどもその理由は、もう嫌というほど分かっている。嫌というほどに、実感している。
――――お前が好きだという、ただひとつの答えだと。
俺にかかわる他人が、俺の感情の全ての起因は、ミカヤだった。ミカヤだけだった。それなのに初めて、ミカヤ以外の相手が自らの感情に意味をもたらした。ミカヤ以外の人間が、俺に意味を与えた。
「…俺は…やっぱり…何処にいてもお前に…還ってきてしまうんだな……」
運命なんて言葉は安っぽすぎて嫌いだけど。でも今はそんな安っぽい言葉ですら、信じてしまえそうな気がした。今ここにお前がいなくても、こうやって。こうやってお前の破片がある場所に、辿りついてしまう自分自身に対して。これが運命なんだ、と。
――――そして再び、動き始める。止まっていた時計の針が、動き始める……
銀色の髪の少女が目の前に立っていた。その少女を見た瞬間に、気がついた。自分と同じ『宿命』を持つ者だと。
「同じ宿命…?では、あなたにも印が……」
「そうだ。おまえと戦うこの者たちが何者かは知らぬ。しかし、我が同胞を襲いしは私に剣を向けたも同じ。生きてこの砂漠より帰さぬ」
同じ宿命を持つ者。この世界の理からはみ出した存在。在るべき姿ではない存在。けれども、この世界に『生きている』存在。
「………わたしの同胞……名前を…お聞きしていいですか?」
「…人に名を問う場合、自ら名乗るべきではないか?」
真っすぐな大きな瞳が自分を見上げてくる。この瞬間に、重なった。この瞳と同じ不安定さを持つ瞳。その瞳と、重なって。そして。
「す、すみません。わたしはミカヤです……」
そして、告げられた名前を。その名前を、無意識に受け入れている自分がいた。そうだ、その名前は……。
「…ソーンバルケ。では、参ろうか。」
その名前を私は知っている。その名前を告げた相手を…知っている。
…出逢ったら、もう一度出逢ったら…もう二度と離せない…もう二度と、離さない……