夢すら見ないで眠れる夜があるという事を、初めて知った。他人の気配に怯えることなく、ただひたすらに眠りを貪るという行為を。意識も何も全て消えて、そこにある安心だけに身を任せて眠れる夜があるという事を。
――――目覚めた瞬間に、気がついた。自分が泣いていた事に。
手を伸ばせば、そこにあるものが。指を絡めれば包み込んでくれる手のひらが。触れあった先にあるぬくもりが、その全てが。
『…怖い夢でも、見たのか?……』
夢?夢なんて見なかった。何も見なかった。何も見なかったよ。ただ。ただ、眠っていた。深い眠りの底にいた。まるで胎児のように何も考えず、安心して眠っていた。
『――何で、そんな事言うんだ?』
伸ばされた大きな手。大きくて、全てを。全てを包み込んでくれる、手。大人の手。俺の全てを包み込んでくれる。それは俺が生まれてからずっと。ずっと、知らなかったもの。
『なら、何故泣く?』
零れ落ちる涙を拭う手は、暖かい。大きくて、とても。とても、暖かい。そうだ、この手がずっと。ずっと俺の背中を撫でてくれていた。
『…分からない…分からない…でも……』
俺の身体をすっぽりと包みこみ、抱きしめてくれた腕。ここは安全な場所だからと。誰も危害を加えないからと、そう無言で伝えてくれていた腕。この腕があったから俺は。
『…でも…初めてだったから……こんなに…夢すら見ないで…眠れたのが……』
唇が、降りてくる。そっと、降ってくる。涙の跡に、頬に、睫毛に。その柔らかい感触に、何故だろう?また、泣きたくなったのは。子供みたいに声を上げて、泣きたくなったのは。
―――どうしてだろう?お前といると俺は。俺は、どうしようもなく我が儘になってゆくのは。
見上げてくる瞳は重なって、そして離れていった。同じような不安定さだと思っていたものは一瞬だけで、それは少しずつ違うものへと変化してゆく。別の、ものへと。
「ミカヤと言ったな。お前はずっとこうして人間と関わって生きてきたのか?」
不安定さの底にある強さは、この娘特有のものだろう。この奥底にある芯の強さは。儚げに見える外見とは裏腹に、揺るぎない強さを持つ娘。それは明らかに違うモノ、だった。
「最初は隠れるように生きてきました。でも今は…今はこうして皆とともに生きています」
「――――」
「私はこの世界が好きだから。だから、自分がどんな存在であっても関係ない…この地に生きる者として、この世界を護るってそう決めたから。だからこうして皆とともにいて…そして戦います」
迷いのない強さ。さっき一瞬見せた不安定さはもう何処にもない。この強さが、お前をずっと護ってきた。そしてその強さを、ずっとお前は護ってゆこうとしている。
「…そうか……」
消えない絆。決して消える事のない絆。それは親子よりも恋人よりも、もっと。もっと深いものなのだろう。そんな絆を。
「お前は強いのだな」
そんな絆すら引き千切ろうとしている私は…愚かなのだろうか?
身体を丸めて眠るから。自分を自分自身で護るように眠るから。だから、そのまま。そのまま抱きしめてやった。抱きしめてここは安心だからと。誰にも傷つけさせはしないからと。それでもずっと。ずっと身体を丸めたままで眠るから。どうしたら。どうしたら、お前のそんな哀しい癖を治せるのかと、一晩中抱きしめながら考えていた。
――――今思えば私は馬鹿みたいに、お前の事ばかり考えていた……
瞼を開いて見せた子供のような無邪気な顔が。
『…ソーンバルケ……よかった……』
一瞬見せた無防備なその表情が。その、剥き出しの瞳が。
『…よかった…ここに、いた……』
寝ぼけながら呟いたその言葉が、もうずっと。ずっと頭から離れない。
私からさよならと、そう告げたのに。最期に見せたお前の顔が、その言葉の意味すら無意味なものにさせた。初めて見せたお前の強さが、お前の強い瞳が。その強さが、さよならの意味を無意味なものにした。
そうだ、お前が持っていったものは私が奪われたものだ。そして私が奪っていたものは、お前が必死で護りとおしていたものだ。互いが大事なものを奪い合った、互いが全てを求めあった。だから。だからもう一度巡り合ったら。もう一度出逢ったならば、その時は。―――私はどんなことがあろうとも、お前の全てを奪う。そしてお前に全てを与えよう。
……だから、もう一度。もう一度、お前に…逢いたい………
足許に転がる『塊』を見下ろしながら、こんなにも他人事のようにそれを見ている自分に苦笑した。あれだけデインを苦しめてきた、自分たちを苦しめてきた化け物は、今はただの肉の塊になって足許にぽつんと転がっている。
「やったぜっ!ヌミダのヤローを倒したぜっ!!」
エディの声がひどく遠くから聴こえる。こんなにも近くにいるのに。こんなにも戦いは身近で起きたのに。
「これで終わりじゃないけど、少しだけ気持ちの区切りが着いたよ」
隣にいたレオナルドの言葉に、サザはひとつ頷いた。あまりにも色々な事が起こりすぎていたから、目の前の死にも麻痺しまっているのだろうか。それとも。―――それ、とも?
その先を考える前に思考を停止した。その先を考えてはいけない。今は、ただ戦いの事だけを考えればいい。生き抜くことだけを。そして。そして、ミカヤを護ることだけを。
「サザ?何処にいくの?」
「少し―――ひとりになりたい」
「そうだね、サザも色々考える事があるだろうし…ミカヤが戻ってきたら伝えておくよ」
「ああ、悪いな…レオナルド」
レオナルドに手を振ると、サザはその塊を最期に一瞥してその場を去った。それは無意識の『逃避』だった。
いつの間にか空は薄暗くなっていた。あれだけ強く降り注いでいた熱は消え、気温は少し寒さを覚えるほどになっていた。もうすぐ日中とは想像もつかない砂漠の寒い夜が始まる。
「―――お前が石になっている訳…ないよな……」
その場にしゃがみ込み、砂を指で掬ってみた。それはあっという間に、指の隙間からさらさらと零れてゆく。さらさらと、指の隙間から。
「…だからって…ここで逢えるとは…限らないよな……」
そう口では呟きながらも、逃げている自分を自覚した。そうだ、今自分は『逃げて』いる。
「…逢って…逢ったら…どうする?……」
逃げている。彼から逃げている。もう二度と逢うことはない。逢わなくてもいい、と。そう決めていたから。そう決める事で、全ての矛盾を消したから。消して、折り合いをつけて。そしてここまで辿り着いたのに。
「…どうする?…お前に逢ったら…お前に……」
ミカヤを護ることだけを『考えて』きた。それだけを『思って』きた。だってお前はもう俺の一部になっているから。考える事も、思い出す事もない。そんなことすらしなくても、ここに在ったから。それなのに。
それなのに、もしも今。今、お前に逢ってしまったならば。もう一度出逢ってしまったならば?
「…お前に…俺は…逢い………」
目の前にその瞳があったならば。その腕が伸ばされたならば。その手が触れたならば。その声が名前を呼んでくれたならば。
「…逢い…た…い……」
思い出したことなんてない、だって忘れた事がないから。記憶を辿ったことなんてない、だってすぐにでも全てが浮かんでくるから。だから、お前の事を考えたことなんてない。
「…逢いたい…逢いたいんだ…俺は……」
こんなにも近くにいる。こんなにもお前は俺の近くに在る。でも。でもお前はいない。何処にもいない。お前に触れる事が、出来ない。
「…俺は…ずっと…ソーンバルケ…俺は…っ……」
ああ、どうして。どうして、俺はこんなにも愚かなのか。自分自身を保つために、自分の心を護るために、全てを閉じ込めようとする。必死になって閉じ込めようとしている。最初から無理なのに。そうだ、最初から無理だったんだ。だってこんなにも。こんなにも俺はお前への想いで溢れているのに。
それでも無理やり閉じ込めて、その存在がここに在るんだと納得させて。そうやってお前の存在を封じて、ミカヤのためだけに生きると、そう。そう理由をつけて。
「…お前を…ずっと…ずっと、ずっと……」
気付かないふりをして、誤魔化している。本当はずっと。ずっと、分かっていた事なのに。そんな簡単に閉じ込められるものじゃないんだと。そんな簡単なものだったら、こんなにも苦しくはない。こんなにも…哀しくはない。
「…ずっと…俺は…捜しているんだ…お前を………」
ミカヤ、俺にとってのただ一人の『女』。それは嘘じゃない。これから先もずっと。ずっと、それは変わらない。でも。でも俺は。俺は……
「…ソーン…逢いたいよ…お前の顔、見たいよ…お前の声…聴きたいよ…お前に抱きしめて…欲しいよ…何もいらないから…俺他に何もいらないから…だから…だから……」
それ以上にお前を好きになってしまった。お前に恋をしたんだ。本当に、どうしようもなくて、どうにも出来ない恋を。そんな恋を…お前にしたんだ。
――――全ての感情の始まりはミカヤだったけれど…ただひとつ、ひとを愛する気持ちだけは…お前がくれたんだ……