背徳の瞳 01 02 03 04 05

背徳の瞳




―――これは、罪だ。

堕落する。身体が、心が、精神が。堕落、する。
この眩暈すら起こしてしまう、麻薬の時間が全てを蝕んでゆく。
身体も心も精神も。全てが、堕ちてゆく。堕ちて、堕ちて。

―――そして辿り着く先は、一体どこなのだろうか?


いつになれば、僕はこの悪夢から逃れる事が出来るのだろうか?

「・・あっ・・・」
くっきりと浮かび上がる白い首筋に、伸は吸い込まれるように口付けた。そこから痺れるような甘い味が、口の中に広がってゆく。
「・・やだっ・・あ・・・」
首筋の滑らかなラインから、ゆっくりと伸は唇を鎖骨へと滑らす。そして丁寧にそのラインを舌先で辿った。その度に腕の中の身体が小刻みに震える。
「・・あ・・あぁ・・・」
鎖骨に這わしていた舌を、尖った胸へと移動する。その桜色に染まった突起を舌先でつついてやると、それはたちまちにぴんっと張り詰めた。
「・・やだっ・・そこ・・やめ・・・」
空いている方の胸を指先で摘みそれを軽く扱いてやると、耐えきれずに甘い息が口から零れる。その反応を楽しむかのように伸は、胸への愛撫をより執拗にしてゆく。
「・・やぁ・・あぁ・・・」
ぴくりぴくりと鮮魚のように跳ねる肢体。紅く艶やかな唇。濡れた瞳。どれもこれもが、全て伸を誘っている。そう、全身で。
「―――まるで君は、麻薬のようだね。当麻」
そう、彼は麻薬。一度知ってしまったら二度と手放せない、禁断の麻薬。

―――その味を知ってしまったら、後は堕ちてゆくだけ……。


「俺が欲しいの?伸」
当麻はひどく幼い顔で、そのセリフを言った。そうそれは、本当に無邪気な顔で。
「抱かせてくれるのかい?」
「いいよ、させてあげる。けれど一つ条件がある」
処女のような瞳で。あどけない唇で。子供のような表情で。けれども。
「―――俺を買ってね。お前の持っている全てで」
何よりも残酷な言葉をいとも簡単に、言って退ける。


言葉通り、何も彼も奪われた。
身体も、心も、精神も。
全てが堕落した。この麻薬の時間に。
この何よりも甘美で何よりも危険な、彼。
でももう、離れられない。
一度知ってしまったら、もう二度と。
全てが滅びるまで、自分は彼を抱き続けるだろう。


「・・あっ・・ああ・・・」
限界まで貫かれて、当麻の形良い眉が歪む。しかし伸はそんな当麻の腰を掴むとより深い快楽を求める為に、それを激しく揺すった。
「・・ああ・・あ・・・」
当麻の手が無意識にシーツをくしゃりと、握り締める。そこからは白い波が、広がった。
「・・あぁ・・ああ・・もぉ・・・」
「…当麻……」
「・・もぉ・・やぁ・・・」
当麻の瞳から快楽の涙が零れ落ちる。それを見ながら伸は、思った。もっと、啼かせたいと。もっと啼かせて、自分の名を呼ばせたい。自分の全てで埋め尽くしたい。でも。
「・・やっ・・ああっ!」
でも、奪われているのも、失ってゆくのも、全部自分だった。当麻は何も失わない。何も奪われない。こうやった自分がいくら身体を支配しても、当麻はこの手の中へと堕ちては来ない。現に自分の心は、当麻に支配されている。
「・・あああ・・・」
何度最期の時を迎えても、当麻は決して自分の手の中には入らない。

「…お金、ちょうだい……」
それは行為の後ベッドから抜け出した当麻が、真先に言った言葉だった。
「―――お金?」
「そう、お金。くれるよね、伸。お前は俺を『買った』んだから」
くすくすと無邪気に笑う、当麻。その顔の下にはどれくらいの計算が隠されているのだろうか?でも、それが見えても伸にはどうする事も出来ないけれど。
「幾ら欲しいの?」
「一千万円」
莫大な大金を、当麻はいとも簡単に言って退ける。いや、当麻は知っているから言うのだ。自分がそのお金を当麻に差し出してしまう事を。それを全て、計算の上で。
「それくらい、安いよね。毛利財閥の御曹司には」
「やっぱり、知ってたんだね。だから僕に近づいたんだ」
「そうだよ。俺は目的の為ならば手段はは選ばない」
伸の言葉にも当麻は一向に悪びれない。多分罪悪感なんて言葉を知らないのだろう。でもそれを承知で自分は彼を『買った』のだから。その無邪気な顔の下に隠された顔も、知っていて。知っていても、欲しかったから。
「何に、使うんだ?」
「教えない。知りたかったら、自分で調べるんだね」
「随分な、言葉だね。当麻」
「いいじゃん、そんな事。で、くれるの?」
「上げるよ、それくらい。君が望むならね」
初めから決まっている勝負に賭けてしまう程、自分は堕落している。

―――結局、僕は何もかも彼に、奪われている。


「…伸様…例の件についてですが……」
「――どうだった?」
「……それが…………」
いささか歯切れの悪い報告に、伸は形の良い眉毛を器用に歪めて先を促した。


―――彼は強かでも、何でもない。ただ、自分に正直なだけだ。

「―――何方様、ですか?」
伸はしばらく、言葉を返す事が出来なかった。それ程、目の前の人物は伸に強い衝撃を与えた。
太陽の光を全て吸収したような金色の髪と、どんな宝石よりも豪奢なアメジストアイズ。
そして怖い程に整った顔は、美形と表現するには余りにも綺麗過ぎて。すらりと延びた長身も、無駄の無い肢体も全てが完璧に出来た彫刻のようだった。
「……あ、あの………」
まるで、鋭い刃物のようだった。そこに居るだけで全ての存在を傷つけてしまうような。
思わず伸ですら、生唾を飲み込んでしまった。それ程、目の前の彼は強い存在感を持っていた。
「済まぬが私は生憎目をやられていて、貴殿が分からんのだ。失礼だが、名前を言って貰えんだろうか?」
「―――目が、見えない?」
伸は驚愕の表情で目の前の人物を見つめる。―――その時、だった。
「………し、ん…………」
「―――当麻…………」
伸の目の前に、多分一生見る事が叶わないと思った当麻の茫然とした表情が目に入ったのは……。そして。
「当麻の知り合いか?」
次の瞬間、当麻は。今にも泣きそうな顔で、その彼を見つめたのは。そして、何事も無かったように微笑って。
「―――うん、ちょっとしたね」
いつもの冷たくて曖昧な笑みを、伸に向けたのだ。


「君の『お兄さん』なんだってね、彼は」
どうしても入れて貰えなかった部屋を後にして、当麻と伸は近くの喫茶店へと入って行った。その間、ずっと当麻は無言だった。
「何が、言いたいの?伸」
「…いや…僕は君の言葉通りにしたんだよ。君が調べろと言ったから、ね……」
「―――で、調べたんだ。俺と征士の事」
「ふーん、彼は征士って言うんだ。随分と綺麗な男だね。僕ですら、流石に驚いたよ」
「そんな事、どうでもいいだろう?」
当麻が無意識に親指の爪を噛んだ。その仕種がひどく、魅惑的に見えて。
「ああ、どうでもいい事だね。征士君と君が兄弟なんて全くの嘘でも、彼が期待されていたF−3のレーサーだったって事も」
「……そこまで、調べたのかよ?………」
「君が何も教えてくれないからね。でもまさか彼が失明してたなんて―――っ」
伸が言葉を言い終える前に、当麻の手が強かに伸の頬を打ちつけていた。
「それ以上、言ってみな。俺はあんたを許さないよ」
「随分こだわるんだね。そんなに彼が好きなの?」
「ああ、好きだよ。誰よりも」
伸の言葉に、当麻は何の躊躇いも無く言って退けた。それこそ、本当に幸福そうに。
「俺は征士の為ならば、何だってする」
「―――だから、僕と寝たの?」
でもそれは、残酷だ。何よりも幸福な笑みで、何よりも自信を持って言う言葉は、それだけで自分を傷つけるのに。彼は、気付かない。
「そうだよ。俺はただ、征士の目を直してくれるなら何でも良かったんだ」
「……君は、酷い人だ。他人の気持ちを何も考えない………」
「そうだよ、俺にとって大切なのは征士だけだ。だから他人なんてどうでもいい」
何も彼も奪うくせに、何も与えてはくれない人。傲慢な程自分から全てを奪ったのに、彼は何一つ失わない。でも。
「どうでもいいんだよ。俺は征士の為だけに生きているんだから」
でもそれを望んだのは、自分だった。知ってて全てを承知で当麻を手に入れた。だから。
「つまり僕は、用済みって訳だ」
「そう、もう伸とは逢わない。さよならだ」
「相変わらず、我が儘なんだね」
だから、最期まで拒めない。彼の我が儘も気まぐれも全て。
「違うよ、俺は自分に正直なんだ」
全て、拒めない。身体も心も精神も、堕落したのは自分だから。


「―――征士っ!」
突然席から立ち上がった当麻が少しだけ驚いて、そして次の瞬間本当に嬉しそうな顔でその名を呼んだ。
「迎えにきた。そろそろだと思ってな」
そんな当麻に彼は迷うこと無く、自分たちの目の前に立つ。その一連の動作は失明しているとは思えない程、流暢で華麗だった。
「うん、もう終わったよ。帰ろう征士」
ごく自然に、当麻は彼の腕に自分のそれを絡める。そして伸の手元にある伝票をすっと、持ち上げて。
「最期だから、払って上げるね」
にっこりと笑うと、その場から去っていった。大切な人の腕を取って……。


「征士、好きだよ」
征士の首筋に指を絡めて、当麻は幸せそうにその言葉を呟く。本当に、幸せそうに。
「大好き」
そして、口付ける。そんな当麻の身体を抱き止める事で、征士は彼に無言で答えるのだ。


「―――確かに、君は正直だ」
グラスの底に残された透明な液体を見つめながら、伸はぼそりと呟いた。そして。
「我が儘で自分勝手で、利己的で。そして、残酷で……」
その液体を全て飲み干した。その瞬間、喉を痺れるような感覚が襲う。それはほんのり、苦くて。
「………でも、それでも君を買ったのは、僕だものね………」
―――少しだけ、苦しかった。


身体も心も精神も。全てが堕落しても。全てが奪われても。
この至上の快楽を選んだのは、自分自身だから。
例えそれが禁断の麻薬だとしても。
―――選んだのは、確かに自分だから。


―――それは堕落者だけに許された、至上の時間。


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