5
―――優しい過去よりも綺麗な未来よりも、確かな今がほしい。
「……最近、よく吸うね………」
当麻は上半身だけをベッドから起こすと、隣に座る征士を見上げた。
「煙草は、嫌いか?」
「別に好きでも嫌いでも無いけど、征士が好きなら俺も好きになる」
相変わらずの当麻の言い方に、征士は苦笑を禁じえない。彼は、どんな事でも自分を基準にする。本当にどんな些細な事でも。
「何となく、癖になってな。止められなくなった」
征士は灰皿に吸っていた煙草を捨てると、その灰皿をベッドサイドへと置く。そして当麻をそっと自分の腕の中へと引き寄せた。
「煙草って、麻薬みたいなものだから。病み付きになるって言うしね」
「…麻薬、か……」
当麻の言葉にくすりと征士は微笑うと、柔らかい当麻の髪に口付けた。そこからは夜の、匂いがした。
「まるでお前のようだな」
「…俺が、麻薬?……」
「一度この手にしたら、後は病み付きだ」
そう言って珍しく声を発てて笑う征士に、一瞬だけ当麻は戸惑って。そして次の瞬間、とても嬉しそうに微笑った。当麻にとって何よりも重要で何よりも大切なのは、征士の事だから。当麻は、征士が嬉しければ自分も嬉しいし、征士が楽しければ自分も楽しいのだ。
だから当麻にとっての感心事は常に、征士のみにしか働かない。
「―――当麻、私が好きか?」
「大好き」
こうやっていつも当麻は、真っ直ぐに自分の気持ちを伝えるから。征士もきちんと、答えてやる。当麻が欲しがっている言葉を、全て。
「私もだ、当麻」
そう言って口付ける征士の広い背中に、当麻はその細い腕を廻して答える。幸せ、だった。当麻は今何よりも、幸せだった。
―――ここは『ふたり』だけでいられる、至上の楽園。
「…当麻、外へ出たくはないか?……」
何時ものように朝食を終えてから、不意に征士は当麻に言った。
「…そ、と?……」
「お前はこの屋敷に来てから一度もここから出た事は無い。出たくはないのか?」
征士が当麻をこの屋敷に連れて来てからというもの、当麻はここから一度も出た事は無かった。昼間は大抵仕事で征士は居ないので、自由にしていていいと言っているのに、当麻はいつも屋敷内にいる。そして征士の帰りを待っているのだ。
「別に思わないよ」
「学校へとかは、行きたくはないのか?」
征士が初めて当麻と出逢った時、彼は大学生だった。それも普通の学生では無く、大学では客人として扱われていた。当麻は既に外国の大学で博士号を得ていた程なのだから。
「…別に…もう勉強はし尽くしちゃったし……それに………」
「―――それに?」
「外には、征士が居ない」
「………」
「征士が居なければ、何の意味も無い」
「―――当麻………」
これは自分が一生背負わなくてはならない罪なのだろう。ここまで当麻を自分の存在で埋めてしまった事への。でもそれは当麻が望んで、自分が了承した事だ。誰のせいでも無い。自分たちが望んだ事なのだ。
「ならば、一緒に行くのはどうだ?」
「……征士………」
「今日は生憎仕事も無い。どうだ、当麻?」
征士の言葉に。当麻は、本当に嬉しそうに頷いた。
「こうやって二人で歩くのって、久し振りだね」
「……そうだな………何年振りだろうか?…………」
初めて出逢ったのは、未だ自分がレースを始めたばかりの時だった。気まぐれでサーキットにやって来た当麻を、征士が見つけて。何気なく、言葉を交わして。いつのまにか、魅かれて。そして。そして、いつのまにか求めあっていた。
―――そして、記憶喪失と失明。当麻を庇って事故にあった征士は、当麻の命の代償に光と記憶を、失った。そう、記憶。自分が伊達家を継ぐ唯一の者だという事も。全てを忘れてしまった。
そして征士は、自分の正体を全て伏せていた。自分が伊達家の嫡男だと言う事実は、トップ・シークレットだったのだ。生涯妻を持たなかった伊達家の当主の、唯一の息子だと言う事は。だからこそ『ふたりきり』になれた。征士の身寄りが居ないと周りの人間が思い込んでいたからこそ。当麻は征士を手に入れられたのだ。
記憶を失っていた征士に、それこそ当麻は何でもした。彼の目の手術代を稼ぐ為に、他人に抱かれた事さえも。
そして征士の目に光が戻り、彼が記憶を取り戻した時。征士にとって当麻は無くてはならない人になっていた。その時、離れられないと自覚した。だから、連れてきた。伊達家を継ぐ事と引換えに。当麻をこの腕の中へと閉じ込めた。こうして、腕の中へと。
「色々、遇ったもんね」
「そうだな、私達には沢山の事が有り過ぎた」
いつも、自分の傍にいた当麻。自分の傍にいる事だけを望んだ当麻。他には何一つ欲しいものは無いと言う。自分以外は何一つ。
「でも得られたものは、大きかった」
記憶を失っていた頃、よく征士は疑問に思っていた。何で当麻はこれ程までに自分を愛するのかと。でも、今ならば判る。そんな当麻と同じ想いだけ、自分も彼を愛しているから。
「……征士………」
「何だ?当麻」
「……今、幸せ?………」
真剣な瞳が、真っ直ぐに征士を見つめてくる。そうだ。当麻は何時だって自分に真っ直ぐな視線を向けていた。逸らす事無く、真っ直ぐに。
「―――ああ……」
それは当麻が正直だから。征士に対しては、決して当麻は嘘を付かない。その気持ちさえも。だから、当麻はこんなにも。
「……良かった………」
こんなにも、征士を思っている。こんなにも征士の事だけを考えている。自分自身の事すらどうでもいい程に。それは、何よりも当麻が自分に正直だから。
「良かった、征士が幸せで」
「でも、当麻。一つだけ条件が有るのだが……」
「……条件?………」
上目遣いに自分を見つめてくる当麻に、征士はそっと耳元に唇を寄せて。
「―――お前が傍に、居る事だ………」
そう、言ってくれた。
ひどく、長い回り道を自分たちはしていたと思う。
けれどもそれは決して、無駄な事ではなかったから。一つ一つの出来事に、時間に、無駄なものは何一つ無かったのだから。
だから、こうして。こうして、ふたりで居られるのだから。そう、自分たちは決して離れる事が出来ない、と。気付いたから。
最期の楽園に神様なんていらない。互いの存在だけで、充分だから。