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―――何も、怖くはない。本当に怖いのは、貴方を失う事だけ。
「……征士………」
別に欲しいものなんて、なかった。手に入れたいと思ったものなど、何も無かった。
「…何処にも、行かないでね……ずっと、俺の傍にいてね………」
無かった筈なのに。どうしてだろう?何でだろう?何で、こんなにも。こんなにも欲しくなったのだろう?こんなにも手に入れたいと思ったのだろう?
「…その為なら、俺…何でもするから……」
この綺麗な金色の髪も瞳も全部、自分だけのものにしたい。
「…両目の失明と…記憶喪失ですね……」
真っ白な無機質な部屋で、医師は機能的な声でそれを告げた。
「……そんな……征士はっ……」
「…目の方は手術次第で直る可能性も有りますが……記憶の方はどうにもねぇ……」
将来有望な期待のF−3レーサー。いずれF−1にも進出して、世界に出るであろうひと。彼には約束された綺麗な未来が有った筈なのに。
「……手術には…幾らぐらい…掛かるんですか?………」
――――それを全て、奪ってしまった。自分のせいで……。
「…俺が…その目、絶対に直してやるから……」
全てから逃れるように、ここまで逃げて来た。記憶と光を失った征士を、隠すようにこの部屋へと当麻は連れてきた。何も覚えていない征士は、それでも当麻には逆らわなかった。
「随分、私に尽くしてくれるのだな」
細い当麻の肢体を抱き止めながら、征士は呟いた。何も覚えていない征士には、分からないのだろう。自分の気持ちなんて。それでも。
「俺、征士が好きだもん」
それでも、当麻は言う。以前と同じように。いや、それ以上に。
「世界中の誰よりもお前が大好きだもん」
当麻の手が征士の髪へと絡まる。その柔らかい髪は極上の感触をにに与えた。その感触をしばらく楽しむと、当麻は拒まない唇に自らのそれを口付けた。
「―――口づけをしたい程、私が好きなのか?」
征士の問いに、当麻は首を軽く横に振った。そして。
「抱かれたいと思う程、お前が好きなんだ」
再び当麻は口付けた。それを征士は決して、拒まなかった。
「・・あっ・・・」
触れられた箇所が、ひどく熱い。征士の指先に捕らえられただけで、そこはまるで火傷したように熱くなる。
「・・あ・・ぁ・・・」
征士はこの身体を、知っていた。この自分の中で熱く震える身体も。でなければ目が見えない筈なのに、こんなにも手に取るように分かる筈がない。
「・・せい・・じ・・んっ・・・」
当麻の手が征士の髪を捕らえると、そのまま彼の唇を塞いだ。そして薄く開いて彼を誘うと、征士は答えるように当麻の舌に自らのそれを絡めた。
「・・んっ・・ふぅ・・ん・・・」
深くなる口づけに、ふたりは酔い痴れた。舌の感覚が無くなるまで貪り尽くして。そして互いの味に痺れた。
「・・せぇ・・じ・・好き・・・」
「・・・・・」
「・・大好きだよ・・・」
当麻の唇からは、熱い告白が何度も零れ落ちる。それを全て征士は、掬い上げた。
好きで、好きで、死にたい程好きで。死ねない程好きで。
そして、離れられなかった。
自分の存在がどれだけ征士にとってマイナスでしか無いと分かっていても。
離れる事など出来なかった。
離れられる程、生易しい想いでしなかったから。
そんな安っぽい想いでは無かったから。だから傍に居る。
征士が失明したのも記憶を無くしたのも、全部自分のせいだとしても。
全部自分を庇ったせいだと知っていても。
当麻は征士から離れる事は出来ない。初めから、無理だった。
「・・ああっ・・・」
貫かれた痛みよりも、ひとつになれた悦びの方が、当麻の肢体を支配した。そう、この眩暈すら起こしそうな深い快楽が。
「・・あっ・・ああ・・ん・・・」
でもそれは、征士だから。征士でなければ、こんなに深い悦楽を味わう事なんて出来ない。
「―――そんなにも、私が好きか?」
離さないとでも言うように征士の背中に廻した当麻の爪が、深く皮膚に食い込む。そこからは真紅の血が、零れ落ちた。
「・・好き・・大好き・・・」
当麻は快楽に滲む意識を堪えながら、必死で征士に答える。その甘い吐息の合間から。
「・・大好き・・・」
「…分かった……」
それ以上、征士は何も言わなかった。そして当麻も何も言えなかった。後はもう、深い快楽を追うだけで。
―――でも、確かに当麻の気持ちは征士に、受け止められた。
今でもスローモーションのように、瞳の奥に焼きついている。
ふざけて車道に飛び出してしまった自分を、咄嗟に庇って車に跳ねられた征士の姿を。まるで、昨日のようの事に思い出される。そして、征士は光と記憶を、失った。
それは当麻の命と引換えにした、征士の代償だったのだ。
「……征士………」
月明かりに反射して征士の金色の髪が、きらきらと光る。それは、とても綺麗だった。
「ごめんね、離れられなくて」
眠ってしまった征士には、当麻の言葉など届くはずも無かったけれど。けれども当麻は、征士に語り続ける。無駄だと、分かっていても。
「…ごめんね……こんなにも好きで………」
征士の未来も希望も記憶までも奪っても、未だ自分はここにいる。未だ征士を好きでいる。
これはもう、当麻にはどうする事も出来ない想いだった。どうにも出来ない想いだった。
「…俺…お前の為になる事…何にもしてないね………」
征士の為になる事、それは自分の気持ちを抹殺する事。この想いを殺してしまう事。でもそれは一生、当麻には出来ない事だから。
「―――でも、好きなんだ……」
もしも征士から離れる時は、自分の死しか残されてはいないから。
「―――俺を買ってね。お前の持っている全てで」
どんな事でも、出来た。征士から離れる事以外ならば。自分はどんな事だって、出来た。
「それは『契約』かい?当麻」
「そうだよ、だって伸は俺と寝たいんだろう?」
身体なんていらないから。プライドなんて、必要ないから。だから。
「ああ、君が欲しいよ。当麻」
「ならば、俺を買ってね」
―――だから、征士の傍にいさせてください。
「君は、僕から何が欲しいの?」
殆ど義務感だけしか残らないセックスの後は、ひどく気だるかった。口を聞く事すら億劫で、何もしたくはなかった。
「…お金……」
「随分と正直な答えだね。でも物欲は無いんだ」
「物欲?」
「車とか、マンションとか、そういうものはねだらないの?」
「…そうだな……優秀な医者なら…欲しいな……」
「医者?君どこか、悪いの?」
その質問に当麻は曖昧に、微笑った。そして、ひどく自虐的な表情で、言う。
―――俺、頭がおかしいから…と……。
貴方の為に死ぬ事が出来ないなら、貴方の為に生きたい。
その為になら、何を失っても構わないから。だから。
―――貴方の傍に、いさせて下さい。