―――気まぐれで、我が儘で、まるで君は子猫のよう。
「おはよっ、花形」
寝不足の原因が朝から爽やかな笑顔を浮かべながら、花形に挨拶をする。相変わらず口元にはコケティッシュな笑みを浮かべながら。
「………おはよう…………」
答える花形は低血圧+寝不足で大層不機嫌だった。御陰で声までもが地平線を這っている。「お前、目赤いよ。昨日あんまし、寝ていないだろう?」
―――誰のせいだっ!と言いたい所を花形は寸での所で押さえる。もしもこのまま言ったらきっと、こいつを付け上がらせる事になってしまう。それだけは絶対に避けたい。それでなくても只でさえ、ペースはそっちに乗せられているのだから。
「夜更しは身体に良くないよ。特にスポーツマンには、ね」
そう言って、とびっきりの笑顔。こんな笑顔を見せられたら、どんな男だってこいつに惚れるぞ。
「……藤真………」
「何?」
大きな瞳が真っ直ぐに自分を見つめてくる。本当にこいつは自分の魅力に自覚が無いらしい。…いや……もしかしたら、気付いていてやっているのかもしれない。
「…お前って……本当に変な奴だな………」
花形の言葉に藤真の大きな瞳が、更に大きく見開かれる。そのびっくり眼もまた、とびきり可愛くて。
「俺、そんな事言われたの初めてだ」
「……え?………」
「ふーん、そうか。お前にとって俺は変な奴なのか」
妙に関心したような藤真の表情に逆にこっちのほうが戸惑ってしまう。彼の反応は何時も、自分の予想と掛け離れている。
「じゃあ、もっと印象良くしないとね」
そう言ってまた、にっこり。本当に、この笑顔は犯罪だと思う。きっとこの笑顔を見せたら、こいつは何やったって許されてしまうのだろう。
「……お前ってさー………」
「何?花形」
本当に彼は、判らない。行動が余りにも突飛で想像が付かない。今までこんなタイプの人間は花形の廻りにいなかった。自分は何時も相手の行動を冷静に分析して、何時も先手を取っていたのに。なのに彼は全く判らない。何を考え、何を思っているのか。素直そうに見えるのに、逆にそれが計算された演技とも思える。本音が全く見えない。
―――何が『嘘』で、何が『本当』なのか。
「変な奴だ」
「そんな改めて言う事ないだろ?」
そうやって拗ねるような仕種も。その後で又微笑うその表情も。どれが彼の『本当』なのだろうか?
「でも、いいや。それだけ花形に俺は気にして貰えるんだから」
「はーながたっ」
何だかすっきりしないまま教室に入った花形に、中井の地平線のような声が走る。
「お前また藤真サンとお話してたでしょう?もうすっかり噂の的だよ」
「……何だ…それわ………」
「当たり前でしょ?相手はこの学校一のアイドルなんだから」
…何時から、あいつがアイドルになったんだ?………と、叫びたい衝動に花形はかられる。けれども寸での所でそれを押さえると、呆れたように中井を見つめる。
「何だよっその眼は…でも事実なんだからしょーがないでしょう?」
何かが違う、絶対に間違っている。どうして、こんな事になるんだ??
「―――この学校には変態しかいねーのか?」
「やっぱり9:1の男女比が悪いんじゃないすか?だって見渡す限り藤真さんより美人って見当たらないし」
「……でも俺は女の方がいいぞ………」
「ふーん、まあ花形がそう言い張っても廻りがどう見るかは知らないけれどね」
「―――何だ、それは?」
何だか物凄く嫌な予感がする。そして大抵そう思う時の直観は得てして当たるものだったりする……。そして、今回も見事に。
「いやー一部の先輩たちの間で噂なってんだよ、藤真さんの新しい男だってね、お前」
―――素晴らしいまでにその直観は当たったのだった………。
「長谷川」
「何だ?高野」
休み時間になった瞬間訪れた見慣れた顔に、一志はいつもの無表情で迎える。本当に感情を見せない奴だ…と、高野は思う。
「いや、ちょっとお嬢さんに関する噂を聞いてね」
お嬢さんこと、藤真に関する事を尋ねるのには、彼に聞くのが手っ取り早くそして一番確実である。おそらく、藤真本人に聞くよりも。
「―――花形の事か?」
「流石、長谷川。お嬢さんの事は良く知ってるねぇ」
うんうんと妙な関心をしながら高野は言う。我等がお姫様は大層気まぐれで我が儘なのだが、何故かこの幼なじみに対してはひどく従順なのだ。
「茶化すな。そんな事を聞きたいんじゃないだろう?」
「そうでした。で、真相の方はどうなんだい?」
「真相とは?」
「お前の方が茶化してんじゃねーかよっ、で本当の所あの噂の真相はどうなんだい?」
「そんな事、本人に聞けばいいだろう」
「……お前ねぇ………」
――――本人に聞けないから聞いてるんじゃないかっ!
「冗談だよ、今は心配するような状況じゃないよ」
「…何か、引っ掛かる言い方だな………」
「そうか?」
「まあ、いいや。とにかくあくまでも噂ならね。それに藤真って妙に鈍感な所があるから心配でさあ」
「そう、思うか?」
「違うのか?でもほら、藤真って自分の魅力に全く気付いていない所無い?」
高野の言葉に一志は口元だけで微笑う。その言葉は確かに当たっていて、そして外れている。確かに藤真は気付いていない。けれどもそれは意識下の中だけでの事だ。彼は無意識の内にそれを判っている。でなければ、あんな仕種も態度もとれやしない。そして彼には当たり前の事なのだ。自分が賛美され、褒められる事に。
「一志、お前も苦労するよな。あんなに美人な幼なじみを持つと『保護者』も大変だな」
「今更だよ」
「確かにな。お前以外あのお嬢さんを扱える奴はいないからな」
「それは褒め言葉か?」
「いやいや、醜い嫉妬心だよ」
どんなに自分勝手で我が儘だと判っていても。どうしても、魅かれてしまうから。
「お前が、花形か?」
穏やかな昼休み。それを見事にぶち壊してくださっている強面のお兄様達が、ずらりと花形の前に並んでいる。更にここはお決まりの場所、体育館の裏だったりする……。
「ふーん、随分とタッパがあるな。まあ、男はタッパだけじゃねーがな」
その声に周りの強面のお兄さん達は一斉に笑い出す。全く、芸が無い。なさすぎる。
「あのー用が無いんなら…俺、急いでますんで………」
と、行った所で帰してくれる輩では無い事は充分判っている。けれども何となく社交辞令的に言ってしまう。
「そーはいかねぇなー、俺たちが用が有るんでねぇ」
余りにもマニュアル通りの台詞に、溜め息すらも出てこない。情け無さ過ぎる。
「そうですか、それならしかたありませんね」
花形は観念したような溜め息を付く。こう言った事は中学で卒業したのに、何で今更と思う。そう、それもこれも全てあいつのせいだ。自分はこの高校三年間を平穏無事で終えたいというのに……。
「―――俺は、平和主義者なんですけどね」
あの生意気な子悪魔のせいで、早くも当初の目的が無残にも崩れてゆくのを花形は感じた。本当に世の中とは、理不尽である。
「お前って、凄く強いんだね」
山積みにされたお兄様達を見ながら、原因の張本人はそれはそれは楽しそうに言った。
「……誰のせいだと…思ってんだ?………」
「もしかして、俺のせい?」
「に、決まっているだろうが」
「そうなの?ごめんね」
全く悪びれた風も無く、実にあっけらかんと藤真は言ってくる。これでは怒りをぶつけたくても、全くぶつけられない。
「でも見直しちゃったなー。お前って本当に強いんだ」
「こんな雑魚達とは悪いけど、鍛え方が違うんだよ」
「ふーん、やっぱりスポーツマンは違うね」
「お前だって、そうだろうが?」
「でも俺は喧嘩なんて、しないもん」
「……さいですか…………」
全く誰のせいでこんな事になったのか、本当に判っていないのだろうか?それとも彼にとっては日常茶飯事で、今更気にする事でも無いのだろうか?だとしたら、余りにも自分がかわいそう過ぎるでは無いか。
「花形」
藤真の手が手招きするように動くのにつられて、花形はその手の位置まで顔をひょいっと下げる。その瞬間、藤真の舌が花形の頬をぺろりと舐めた。
「な、何するんだ?!」
「応急処置だよ。血が付いている」
藤真に言われて初めて気付いた。確かに頬に手を当ててみると、小さな傷が出来ている。今回はパーフェクトだと思ったのに。
「本当にお前って面白いな」
藤真の瞳が細められる。本当に彼は楽しそうな表情をした。そんな藤真を見ながら花形はふと、思う。これは彼の『本当』なのだろうか、と。
「悪かったな、でも生憎だが『面白い』なんて言われたのは生まれて初めてだぞ」
「じゃあ俺が一番最初だな」
そう言って藤真はふわりと微笑うと、その白い腕を花形の首に絡ませる。不覚にも花形は自分の状況を一瞬、把握出来なかった。それが拙かった。
「花形、この事先生達にばれたら拙いんじゃないの?」
上目遣いに見つめる藤真の瞳は、まるで夜空のようでこのまま吸い込まれてしまいそうだった。
「正当防衛だ」
「でも、喧嘩は拙いよねぇ」
紅い唇が微かに濡れていてひどく、艶やかだった。これは、卑怯だ。こんな目付きで、こんな瞳で、こんな表情で見つめられたら、どんな男だってこの手を振り切れない。
現に自分だって、不覚にもこの腕を解けない。色気仕掛けとは良く言うが、男にされるとは流石の花形だって思わなかった。思わなかったが、いかんせん目の前の彼は色っぽすぎる。本当にこいつは男なのかと思うくらい魅惑的な唇が、甘い声を上らせる。
「黙ってて上げるよ。俺の条件を聞いてくれたら」
「…何だよ…条件て……」
本来なら『さげんな』と言っている所だが、今の花形にはそれは不可能だった。我れながら情け無いが、こんな事されたら絶対に普通の男ならば抵抗出来る筈がない。それ位目の前の彼は、艶やかで妖しかった。さっきまでの無邪気な顔はどこへ行ったのかと思う程。
「バスケ部に、入部する事」
「―――え…………」
余りにも余りにも予想外の条件に、花形の頭が一瞬真っ白になる。けれども藤真はその一瞬を決して見逃しは、しなかった。
「入って、くれるよね」
とどめとばかりにそう囁くと、ゆっくりと藤真は花形の唇に自分のそれを重ね合わせた。それはこの間の挨拶のキスとは、明らかに違うものだった。
藤真の舌が誘うように花形の唇に触れる。その藤真の誘いに、花形は無意識に答えた。口を開いて藤真の舌を迎え入れると、それを絡め取った。
「……んっ…………」
藤真の手が堪えきれずに、花形のワイシャツを握り締める。けれども花形は行為を止めなかった。藤真の背中を抱かえると、なおも彼の口内を征服してゆく。
「……ふぅ……ん………」
飲みきれなくなった唾液が藤真の喉を伝う。その感触に藤真の瞼が震えた。
「……はぁっ………」
唾液が一筋の線を引いて、二人の唇が離れる。けれども藤真は唇が開放されてからも、まともに立っていられず花形に凭れ掛かっていた。そんな藤真を花形は抱き締める。
「…お前…キス……上手い………」
未だ火種を残す潤んだ瞳で、藤真は花形を見上げる。その時になってやっと、花形は今自分が何をしたかを思い出した。しかしそれは見事なまでの後の祭り、だった。
「……嘘……だろ…………」
茫然と花形は腕の中の藤真を見つめる。この自分が男とキスをして、なおかつ積極的に応じてしまうなど……。はっきり言ってショックだった。今まで生きてきてこれ程ショックな事は無いくらいに。いや、人生最大の汚点だ。
「…どうしたの?………」
茫然としたまま自分を見つめる花形に、藤真は軽く首を傾げながら尋ねる。その仕種はさっきの色香を微塵も感じさせない無邪気な仕種だった。さっきの藤真は、どんな娼婦よりも淫らに見えたのに……。
「―――自己嫌悪に陥っているんだ」
洒落にならない。よりにもよってこの自分を悩ます原因に、自分が答えてしまうなど。おまけにこのままでは、中井達と同じ穴のムジナになってしまう。これだけは、絶対に避けたい。避けたいのだが……。
「何で?」
でも確かに藤真は、美人だ。性別を越えて彼は、純粋に綺麗だと思う。多分こんなに綺麗な奴とはもう一生出逢えないだろう。
「……俺は…ホモじゃねーぞ…………」
そう、自分はホモなんかじゃない。男何かに欲情した事も、ましてや抱いた事なんてない。けれども。
「知ってるよ」
けれども確かに自分は目の前の彼に欲情してしまったのだ。紛れもない正真正銘の男に。―――あのまま抱いてしまいたい、と思ったのだ。
「お前、普通の奴だもんな」
そう言ってまた、藤真は微笑った。本当に判っているのだろうか?けれども彼の表情が余りにも無邪気なので、その先を聞く事が出来なかったが。
「でもこれでもう一つ俺に借りが出来たな、花形」
「……何が、いいたい?………」
嫌な予感がする。そうしてこう言った時に自分の勘はひどく、当たるのだ。
「ううん、何でも無いよ。でもこれで花形がバスケ部に入ってくれるんだなーと思って」
――――やっぱり、当たった……。
花形は藤真に判らないように深い溜め息を付いたのだった。
そして花形透がバスケ部に入部するのは、それから三日後の事である。