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―――君は、綺麗な夢だけを見ていてほしい。

「―――あんま、飲み過ぎるなよ」
苦笑交じりに一志は言うと、床にぺたりと座り込む藤真に言った。けれども藤真は一志の制止も聞かずに、一気に酒を飲み干す。
「……いーんだよ………」
止めようとしない藤真を宥めるように、一志は藤真の前にしゃがみ込むと頭をそっと撫でてやる。そうしながら藤真と真っ直ぐに視線を合わせるようにして。
「…そんなに嫌か?あの人に逢うのは?……」
ひどく優しい声で尋ねた。多分一志を少しでも知っている人間が聞いたら、驚く程の。それは本当に優しい声だった。
「……嫌だ………」
でも藤真は相変わらず不機嫌で、ぷいっと一志から視線を外してしまう。けれども一志は根気よく藤真に話し掛けた。
「そんなにあの人が、嫌いか?」
「―――嫌い、じゃない…………」
藤真の以外な答えに、一瞬一志の顔が驚愕に変化する。けれどもそんな一志など気にせずに、藤真は話を続けた。
「多分、好きだとは思う。でも、嫌なんだ」
「……何故?………」
「だって、俺たち似てるだろう?何だか自分を見てるみたいで、嫌だ」
「……藤真………」
余りにも意外な答えにこっちの方が面食らってしまう。これは予想外だった。
「…それにあの人は何でも見透かすんだ……俺が必死で隠しても……」
「藤真、それは嫌じゃなくて苦手と言うのだろう?」
「そーかもしれない。でも、俺の思い通りにならない奴は嫌だ」
考えてみれば随分な台詞である。しかしそれが藤真の言った言葉ならば、仕方無いと一志は思ってしまう。藤真は生まれてから今まで、ずっと思い通りに生きてきたから。そしてそれを誰もが許してしまうから。人はそれを我が儘と言うかもしれない。けれども藤真だから、いや藤真だからこそ、その全てが当然になるのだ。藤真の我が儘は何よりも自分に正直だから起こるものだ。何よりも、自分に素直だから。
「―――花形は?」
「……何で、あいつの名前が出て来るんだ?………」
花形と名前を聞いて、藤真の機嫌が益々悪くなってしまった。でも酔っている本人には自覚は無いだろうが。こんな所が素直なんだ、と言ったら彼はどう思うだろうか?
「いや、お前随分あいつを気にしていたから」
「………花形は…………」
そう言い掛けた藤真の身体が、不意に床に崩れ落ちる。それを寸での所で一志は受け止めると、そっとその肢体を抱き上げた。
「…全く…お前は………」
酔い過ぎて、ついに潰れてしまったらしい。見事に意識が何処かへ行ってしまっている。一志は細心の注意を払って藤真をベッドに運ぶと、そっと降ろしてやる。
「何時までたっても、子供だな」
風邪を引かないようにと布団を掛けてやると、そっとその髪を撫でてやった。さらさらの細い髪は、一志の指をたやすく擦り抜ける。
一志の指先が髪から顔のラインに移り、そして滑らかな頬に触れた。藤真の頬はひどく、柔らかくて。
「―――藤真………」
ゆっくりと頬を愛撫しながら、一志は意識のない藤真の唇に自らのそれを重ねる。それは触れてすぐに、離れたけれども。
「……好きだ………」
一志の想いを告げるには、充分過ぎる程、充分だった。

―――その夜、夢を見た。
透明な水底に眠る、小さな夢だった。その夢の中で自分は誰かを待っていた。
ずっとこの夢から醒ましてくれる人を。
―――ずっと、ずっと、待っていた。

「……頭痛てー………」
「昨夜あんなに飲むからだろう?強くも無いくせに」
「……だって…仕方無いだろう………」
一志の言葉に拗ねたのか、つんっと唇を尖らせる藤真に一志は苦笑が隠しきれない。本当に子供のようだと、思う。
「……なぁ、一志………」
不意に何かを思い出したのか、藤真は上目遣いに一志を見上げて首を傾げた。例の何かを尋ねる時の、藤真の癖。
「…俺…昨夜……変な事、言わなかったか?………」
「変な事?」
藤真に改めて言われて一志は、昨夜の会話を思い出す。けれども藤真の言う『変な事』は思い当たらなかった。
「いや、別に特には言っていなかったが」
「―――そんなら、いいけど……」
そう言ったきり、藤真は自らの思考へと沈んでいってしまった。長い睫毛が、俯き加減に閉じてゆく。
「藤真今日、学校休むか?」
「いいのか?一志。保護者のくせに俺を甘やかして」
「どうせ二日酔いじゅあ、練習にもならんだろう」
「むーっ俺バスケならば二日酔いだって平気だぜー」
「まあ、たまにはいいだろう?」
「…一志がいいって言うなら…俺、甘えるぞ」
「今日は許してやる」
つんっと指先で藤真のおでこをつつくと、一志はくしゃくしゃっと藤真の髪を撫でてやった。そして。
「帰りにはお前の好きな、ミントチョコのアイス買ってきてやるよ」
藤真にしか見せる事の無い、優しい顔で言った。

「あれー?今日お姫様はお休みかー」
藤真と一志のクラスに訪れた高野は、珍しく一人で居る一志に言ってきた。
「気分が悪いらしい」
「ふーん、でもやっぱ藤真が居ないだけで何つーか『華』が無くなるよなー」
「……お前は………」
「でもマジな話、あの人は本当に『華』のある人だよね。どんな所に居てもすぐに人の目を引くっつーか…嫌でも視界に飛び込んで来るっていうか……」
確かに高野の言う通りである。藤真は絶対にその他大勢には、なれない。どんなに埋もれようとしても、必ず他人を魅き付けてしまう。本人の意識とは無関係に。纏ってる空気が明らかに凡人とは違う。見てしまえば、魅かれずにはいられなくなる。多分彼は一番綺麗な星の下に生まれてきたのだろう。
「やっぱ、美人ってのは特だよな」
「―――何でだ?」
「そりゃーこうやって俺らみたいに、皆に心配して貰えるだろう?」
高野の言葉に一志は微かに微笑った。確かにその通りである。誰からも嫌われる事の無い藤真の、それは最大の特権だから。

「今日、藤真サン欠席だって」
「何でお前がそんな事を知っている?」
突然言われた中井の台詞に、花形は半ば呆れながらそう返した。けれども中井は全く気にせずに、例の調子で。
「そりゃー、藤真サンの事ならば嫌でも耳に入ってくるからね」
切実に、思う。どうしてこの世の中は、こう理不尽な事が多いのか……。
「でも本当にどうしたんだろう?何かひどい病気にでも掛かってたら、心配だな」
「―――そんなんじゃ、ねーだろ………」
「え?」
中井の言葉を余所に、花形は自らの思考に沈んでゆく。離れないのは、あの時の瞳。捨てられた子猫の瞳。多分、今日学校に来ないとしたら『あの男』のせいだ。それはただの仮定でしか無いけれども。何故か花形には確信のように感じた。それ程藤真の見せた瞳は印象的で。とても、切なくて。
「…畜生……何で俺が………」
ぼそりと毒づいた花形の言葉は、誰にも聞こえる事は無かったけれど……。

――――子供の頃、時計の音がひどく嫌いだった。
ひとりぼっちの夜、頭から布団を被って音から逃れようとしたけれど。でも音は耳から消えてくれなくて。何時もカチカチと、耳の奥にまるで針のように突き刺さって。胸が、痛くて。
「……頭、痛いよ………」
藤真は布団を頭まですっぽりと被りながら、誰に言うでも無く呟いた。そうして耐えきれないように、ぎゅっと布団を掴んだ。
――――新しい男か?健司。
あの男の一言が頭から、離れない。別に何時も言われている事なのに、何故だかあの時だけは嫌だった。凄く、嫌だった。
「……ズキズキする………」
今更だと思う。別に『ぶる』気は無い。決して綺麗な私生活をしてきた訳じゃ無いのだから。でも、ただ花形をそう言った対象で見られるのが嫌だった。
「……痛い、よ……」
何時もの男達と一緒にされたくなかった。ただ欲求だけで自分を抱く男達とは。一緒にされたくなかった。
「……胸が、痛い………」
冷たい針が心臓を貫いたような感覚。ちくりと、痛い。藤真は今までこんな感覚を、知らなかった。

―――傍にいて、ずっと君。抱き締めていたい。

「―――花形」
部活を終えて帰宅しようとする花形を、不意に一志が呼び止める。その相手の意外さに、一瞬花形は驚きの表情を浮かべる。
「何?」
それでもすぐに何時ものポーカーフェースに戻るのは、彼らしかった。けれどもそれ以上に一志は、ポーカーフェースだったが。
「ちょっと、聞きたい事がある。いいか?」
「別に構わないが…何だ?」
「単刀直入に聞くが、昨日藤真と何があった?」
「……え?………」
予想外の一志の言葉に花形は驚愕する。そして言われた意味を一度、頭でリピートしてみる。けれども一志の意図する事が、掴めなかった。
「…いや、何も無かったが……」
「本当か?」
ひどく真剣な一志の瞳が、花形を戸惑わせる。言われてみても、昨日は何も無かった。ただ強引に一緒に帰らされ、そして『あの男』が現れただけだ。―――あの男……。
「でも、何でお前がそんな事を聞くんだ?」
花形の質問は尤もと言えば、尤もだった。確かに心当たりが無い訳では無いが、何故その事を彼が聞く事がある?大体、藤真とどういう関係なんだ?
「大体、お前藤真と一体どういう関係なんだよ?友達にしては、随分と構い過ぎじゃないか――――っ」
そこまで言って花形は、はっとする。これではまるで、一志に嫉妬しているみたいだ。
――――嫉妬?
「…悪い…そんな事、俺には関係無い事だったな……」
そう、関係ない筈だ。藤真と長谷川の関係など。自分には関係無い筈だ。それなのに、こんなにこだわっている。あまつさえ、嫉妬のように。
「本気でお前、そう思っているか?」
「ああ。お前らがどういう関係かなんて、俺にはどうでもいい事だ」
嘘だ、こんなにも気にしている。気になっている。二人の事が…いや…藤真の事が。
「ならば、もう二度と藤真に近づくな」
「……長谷川?………」
「これは忠告だ。その気が無いのなら、藤真に近づくな」
「何だよ?その気って」
しかし一志は花形の問いに答えずに、とっととその場を立ち去ってしまう。
「おい、待てよ。どう言う意味だよっ?!」
花形は一志の肩を掴むと、もう一度尋ねた。けれども一志はそんな花形を一瞥しただけで。
「――――言葉通りだ」
それだけを言い残して、花形の手を振り切って去ってしまった。
「……何だよ…『その気』って………」
取り残された花形は毒づくように呟いた。けれども口の中の苦さは消えなかった。
「…それじゃあまるで…俺が藤真に気があるみたいじゃねーか………」
まるで女優のように、くるくると変わる表情。我が儘で自分勝手で気まぐれで。世の中が何でも自分の思い通りになると思っていて。平気で他人を傷つける。それも無意識の内に。―――けれども。
気になって仕方無かった。初めて出逢った時から、ずっと頭から離れなかった。嫌でも瞳が追ってしまう。その姿を。
本当はあの時のキスも、嫌じゃなかった。
「……俺…………」
魅かれている事は、自覚していた。ただそれがどんな類のものかは、判らなかったけれど。けれども、今なら。
「…あいつに…惚れてるのかも………」
今なら、判る。その意味が。これは憧憬とも友情とも違う。確かに形有るものだった。形有る、想いだった。これは『欲』だ。それも、男が女に抱くような。彼に触れたい。触れて、自分のものにしたい。自分だけのものにしたい。
「……参ったな………」
でももう何も彼もが遅すぎる…何故か、花形はそんな気がした。

「――――藤真?」
帰宅した一志を迎えたのは、ぺたりと頭から布団を被ったまま床に座る藤真だった。
「そんな所で、風邪引くぞ」
そう言って一志は手を差し出すと、ひょいっと藤真を立ち上がらせる。藤真は黙って一志に従った。
「約束通りアイス、買って来たぞ。食べるか?」
「……一志、痛い………」
「―――え?」
「…胸が…痛い………」
こんな藤真を見るのは、久し振りだった。いや、もうずっと忘れていた。藤真の哀しそうな顔。迷い子のような、不安定な瞳。
「………藤真………」
「…痛いよ、一志………」
何時も何時も優しさを求めていた、藤真。それが例えかりそめであっても、藤真は求めた。だから平気で他人と寝る。優しさが欲しくて。一夜の温もりが欲しくて。でも。
「大丈夫、俺が居るから」
でももうそんなものは必要が無い筈だった。藤真にとって何よりも夢中になれるもの『バスケ』を見つけたのだから。バスケをしていれば、孤独を感じる事も、淋しさを思い出す事も無いのだから。だからもう、それは失った筈だった。なのに。
「俺がずっとお前の傍に居るから」
一志はそう言うと藤真をそっと抱き締めた。それは親が子供を抱き締めるようなものだったけれど。でも藤真が自分に求めるものはそれだったから。
「―――大丈夫だ」
こうやって、抱き締めてやる。藤真の望む限り。そうする事しか、自分には出来なかったから。
「…藤真……」
「…何?…一志……」
見上げてくる藤真の瞳は、一志を信じきった瞳だった。自分は藤真に対して決して危害を加えないと、そう信じている瞳。
「…いや、何でもない……」
一生告げる事の出来ない想い。自分がこの立場を選んだ時から。この絶対の信頼を得た時から。全てを代償にした想い。
「変な奴だな、お前」
でも、後悔はしていない。自分が選んだ事だから。でも。でも何時しか、藤真が他人のものになった時。自分を必要としなくなった時。
――― 一体自分は、どうなるのだろう?

――――それぞれの想いが、交錯する。もう、戻れない。

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