星屑の涙 〜if〜

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見上げた空は、目に痛い程に蒼い色をしていた。頭上から零れる光は、目を細めなければ光と認識出来ない程で。そんなぬけるような蒼い空と、眩しい日差しが照り返すそんな日だった。
「お義父さま」
あれからどれだけの時が流れただろうか?あれからどれだけの事が起こっただろうか?けれども振り返ってみれば、あんなにもあったたくさんの出来事すらも今は思い出になっている。優しい思い出として、胸に残るだけだった。
「―――ララムか?」
ベルンとの戦争、魔竜との戦い。ミルディン王子の帰還、新生エトルリア王国。沢山の事があった。本当に沢山の事が。あの日、王子様と西方三島に逃れた日から、様々な出来事が。

でも今はそれすらも。それすらも全て、あたしにとって優しい思い出になっている。

空の日差しは眩しくて、一面の蒼はひどく目に焼き付いて。背中を駆け抜ける風の心地良さと、萌える緑から聴こえてくる鳥の囀りが。その全てが今はただ。ただ優しかった。優しかった。
「街でね、花を買ってきたの。真っ白な花よ」
庭に続く窓を空けながら、外の風を室内に招き入れた。優しい風を、この部屋一面に。その風の心地良さに、貴方の口からひとつ吐息が零れる。それを見つめながらあたしは、ひとつ微笑った。
「真っ白な花か…さぞかし綺麗だろうな」
「綺麗よ、ほらお義父さま。甘い薫りがするでしょう?」
貴方の座っている椅子の前に立つと、そのまま抱えていた花を差し出した。むせかえる程の甘さはなかったけれど、ほんのりとした薫りが貴方の鼻孔を擽る。
「ああ、いい薫りだ」
そう言うと貴方は微笑った。それはずっと変わらない貴方の笑顔だった。何時まで経っても変わらない貴方の、笑顔。前よりもずっと目尻の皺は増えたけれど、蓄えていた髭は真っ白になったけれど。でも変わらないの。これだけはずっと。ずっと、変わらないから。


慌しい日々が過ぎて、そして全てが終わった時。全てが終わった時、貴方の髪は真っ白になっていた。顔は皺だらけで、そして。そして他人からは『お爺さん』と言われるほどに。
王子が即位してからもエトルリアの国は貴方を必要とした。そしてやっぱり貴方は国と新王の為に働き続けた。身体がいう事を利かなくなって戦場に出られなくなっても、それでも重鎮として働き続けた。ずっと無理をし続けた。
その結果、貴方は倒れた。激務と疲労が限界に達して、無理をし続けて倒れてしまった。その結果、貴方は永遠に失ってしまった。物を見る力と、そして地上を歩く脚を。
「お義父さま、あたしね」
それから訪れたのは、ひたすらに静かな時だった。穏やかな時間の流れだった。ふたりだけの静かな時だった。
「あたしね、今日ドレスを買ってきたの」
貴方は誰も恨まなかった。視力を失っても、半身が不随になっても。お医者さんが脳の病気だから治らないといった時も、何時もの笑顔を浮かべていた。浮かべながら、言った。誰のせいでもない、と。
皆、泣いていた。貴方のために泣いていた。けれども貴方だけが微笑っていたの。穏やかな笑顔で微笑っていたの。だからあたし。あたし泣くのを止めた。貴方が不幸でないなのならば、あたしには泣く理由がないから。だから、あの日以来ずっと笑っている。貴方のそばで、微笑っている。
「ドレス?パーティーでもあるのか?」
「ううん、違う。でもお義父さまの言ってくれた事を実行しようって思ったの」
「実行?」
「うん、言ってくれたでしょう?――――お前の好きにしていい…って」


公人として引退をし余生を静かに過ごすと貴方は言った。屋敷には多数のメイドがいるし、国から払われる年金があるから、何の問題もないと。だからお前は好きにしていいと。
どんなになってもお前とわしは親子だから。だからもういいんだと。もうこんな老人の世話をせずに、自分の好きに生きてくれと。思うままに生きてくれと。
「そして言ったでしょう?あたしにして欲しいことはって聴いた時に」
そんな貴方にあたしは言った。あたしにとって一番はずっと貴方だって。今でもそれは変わらないって。ずっと変わらないって。だからあたしは貴方が一番喜ぶ事をしたいって。
「言ったよね、お前が恋でもして誰かとしあわせになってくれたらと」
「ああ、言った…残念ながら目が見えないからお前の花嫁姿を見る事は出来ないが…わしにとってそれが今、一番の望みだ」
「…だからお義父さま…あたしを……」
変わらない。ずっと、変わらない。あたしは自分自身の身を以って、知った。どんなになっても変わらないものがあるのだと。どんなに時が過ぎても、変わらないものはあるのだと。それはあたし自身という存在が。ここにいる『あたし』という存在が、何よりもの証拠だって。



ひとつだけ、願いがあった。ひとつだけ、願いがあったの。
それは貴方の瞳に映る最期の人間があたしだったら、と。
貴方の一番最期に瞼に浮かぶ人間があたしだったらと。それが。
それが願いだった。ずっとあたしの願いだった。それは今でも。
今でも変わらない、ただひとつの願い。ただひとつの、願い事。



「…あたしを…貴方のお嫁さんにしてください……」



出来なかったよ。他の誰かを好きになるなんて、あたしには出来なかった。
「…ララム…お前……」
あたしには貴方以上に好きになれる人はいなかった。こんなにも、好きになれる人に。
「あたし…貴方に恋をしている…貴方としあわせになりたい……」
こんなにも人を好きになれたことがしあわせならば。それを与えてくれたのは貴方。
「…お義父さまの願いでしょう?…あたしがしあわせになる事は…だから……」
貴方が与えてくれた。貴方だけがあしたにくれた。貴方だけが…あたしに。


親子よりも親子らしく、恋人よりも恋人らしく。
血の繋がりよりも深く、恋愛よりも強く。
言葉では言い表せない絆。ふたりを結んでいる絆。



何時かわしはお前に言った。お前がそれでもずっと。ずっとその瞳をわしに向けている時は、その時はと。けれどもわしは何処かで願っていた。その日が来ないようにと。その日だけは来ないようにと。わしではずっとお前のそばにいられない。ずっとお前を護ってやる事ができない。先に死に逝くわしには。現に今も。今もわしはお前を見る事が出来ない。歩く事すら出来ない。後は穏やかな死を待つだけの、老人だ。これからもっと綺麗になり花のようになるお前とは、進んでゆく時間が違う。けれども。
「…ララム、それがわしに対する憐れみならば…もういいんだ。わしは充分にお前からたくさんのものを貰った。だからもういいんだ」
「違うっ!あたしはお義父さまとずっと一緒にいたいのっ!ずっと…お義父さまと……」
けれども、お前は。お前はそんな未来よりも、わしとともにいることを望むのか?わしとともに、いる事を。
「貴方と一緒に、いたい。貴方の最期の時間にいる人間が…あたしでありたい…この先のお義父さまの時間を…あたしにください…違う…あたしと一緒に作ってください……」
小さな娘だった。本当に小さな娘だった。それでも強い光を放っていた。生きたいという気持ちが何よりもお前を強くさせていた。それはわしが羨むほどに。
「…あたしと一緒に…いてください……」
お前の声が震えている。ああ、泣いている。お前が、泣いている。肩を震わせ、泣いている。わしが目が見えなくなってからお前は泣かなくなった。何時も微笑っていた。それは目に見えなくても、分かった。わしには、分かった。それがお前とわしが…築き上げてきた時間だった。

そうだ、これが。これがわしとお前だけが…築き上げてきたもの、だった。


「…ララム……」
手探りで、お前に触れる。顔の形。お前の輪郭。
「…お義父さま……」
お前の肌のぬくもり。お前の涙の熱さ。
「…わしで…いいのか?……」
それはわしが知っている少女のお前ではなく。
「…お義父さまが…いい……」
一人の『女』としてのお前だった。そこにいるのは。
「…貴方が…いい……」
そこにいるのは、娘ではないお前だった。


どんなお前でも、わしは『お前』ならば愛している。ずっと、ずっと愛している。


目を閉じて浮かぶ顔があった。真っ先に浮かぶ顔があった。
『あたしは綺麗な服よりも、暖かい部屋よりも』
それはお前がわしを見上げながら、真っ直ぐに見上げながら。一瞬だけ。ほんの一瞬、泣きそうになるその顔だった。
『ぼろぼろの身なりでも、寒い部屋でもしあわせ』
無邪気に微笑いながら、何時もの笑顔を向けながら。何気に言ったその言葉の先にあった顔。
『…お義父さまが…貴方がいてくれれば…しあわせ』
少女よりも先にある…その先の顔。わしが思い出すのは、何時もその顔だった。


その顔が今でも、浮かんでいる。今でも鮮やかに瞼の裏に浮かんでいる。それが今。今お前がわしに見せている顔なのだろう。



「…一緒にいてくれ…わしが死ぬまでの時間を…お前とともに……」



白いドレスを買ってきたの。真っ白なドレスを。
貴方に見せたくて。貴方に見せたかったから。
目に見る事は出来ないけれど。でもね、見てほしかったの。
貴方の花嫁になるあたしの姿を、見てほしかったの。



「…はい…お義父さま…いいえ…あなた……」



微かな甘い薫りに包まれながら、その薫りに包まれながら。そっと唇を重ねた。そっと、重ねた。そこにある永遠を、確かめるために。