生まれて初めて、自分を好きになれた日。あたしという存在を好きになれた日。真っ直ぐに自分に向き合う事が出来たこの瞬間に。この瞬間にいてくれたのが貴方で…よかった。
しあわせになりたい。しあわせになりたい、と。
それは特別な想いじゃなくて、ただ。ただ純粋に。
お金なんていらないの。綺麗なものもいらないの。
ただあたしを必要だと言ってくれる人が、あたしを好きだと言ってくれる人が。
あたしを無条件で愛してくれる人が、欲しかったの。
何もいらないの。ただ。ただ、そばにいてくれればいい。
こうしてあたしを見て微笑ってくれればいい。それだけでいい。
…だからずっと。ずっとあたしをそばに置いていて…ください……。
「お義父さまっ!見て見てっ!!」
室内に響き渡るその声に女中達は目を合わせながら苦笑した。無口でけれども優しい主人との静かな生活に慣れていた彼女らには、その元気な声は新鮮な驚きとともに迎え入れられた。
「おお、ララム…良く似合っているよ」
目を細め優しく笑うダグラスと、まるで春風がやってきたように明るい少女ララムとの会話は、この静かな邸宅に新鮮な空気をもたらした。
「くすくす、将軍もララムちゃんに掛かっては形無しですね」
十年来ダグラスに仕えているメイドが苦笑交じりに言えば、他のメイドたちも笑い出す。けれどもそれは決して嫌な笑いではなかった。
ダグラスはララムを遠縁の娘として廻りに紹介をした。戦争で両親がなくなったから引き取ったのだと、そう。本当の事を言えば貴族社会のエトルリアでは明らかに差別の目で見られるのが分かっているからだ。だからダグラスはあえてその事に口を噤み、ララムを護っていた。
「へへへ、お義父さまが選んでくれたものだから…だからララムには似合うって思っていた」
ダグラスはあまりララムをエトルリアの社交界には出さなかった。元々踊り子として生きてきた身だ。貴族階級の堅苦しいお決まり事などこの少女には必要ないだろう。それよりもこの屋敷内で皆に愛され、楽しくやってくれればいいとそう思っていた。
子供のいないダグラスには年頃の少女の気持ちは理解できない。それでも彼なりに精一杯の愛情をララムに注いできた。そしてそれこそが、ララムが一番必要として…そして求めているものだと、無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。
――――彼女が、何よりも欲しかったものを。
何時も言っていた事が、ある。無邪気な顔を何時もわしに向けながら。それでもその時だけはふと。ふと、表情を変化させて。
「あたしは綺麗な服よりも、暖かい部屋よりも」
何故だろう、何時も。何時も真っ先にお前を思い出す時はその顔だった。その表情だった。明るく無邪気に笑う笑顔よりも、何時も。何時も真っ先に思い浮かぶのは。
「ぼろぼろの身なりでも、寒い部屋でもしあわせ」
自分を見上げて、大きな瞳が真っ直ぐに見上げて。そして。そして一瞬だけ泣きそうになるその顔を。その表情を。わしは死ぬまで忘れる事はないだろう。いや何時しかわしがこの地上から旅立つ時、浮かぶのはきっと。きっとその顔なのだろう。
「…お義父さまが…貴方がいてくれれば…しあわせ」
一途とも言える瞳でわしを見つめる、この顔なのだろう。少女よりももっと先の。もっと先のものを持った…その顔なのだろう。
夢があった。しあわせになるという夢。そして子供になるという夢。あたしは子供になれなかった子供だから、少し滑稽でも。滑稽でもそれが許された瞬間に、誰よりも子供になろうって。無邪気にはしゃいで毎日遊んで、飛びまわって、そして一日が終わる。あたしにはなかった時間。あたしには与えられなかった時間。それを何時か取り返そうってずっと思っていたから。
だから子供になった。無邪気に振舞った。
そうするあたしを貴方が喜んでくれたから。
子供みたいにはしゃいでいるあたしを。
そんなあたしを嬉しそうに見てくれたから。
だから、たくさん、子供になった。
けれどもその時。その時あたしは、気付いていた。何処かで気付いていた。自分のためじゃなくて、貴方のために。貴方が喜ぶから、子供になっていたことを。貴方が喜んでくれるから…子供になっていたことを。そして。そして、それは…。
「ダグラス様の楽しそうな顔を見るのは本当に久々ですよ」
「あ、メアリ」
そう言いながらあたしに声を掛けて来たのはこの家に一番古くから勤めているメイドだった。あたしはこの人が好きだった。おばさんに、少しだけ似ているから。体つきとか顔とかは全然似てないけれど、雰囲気が凄く似ていたから。
「ねえ、お義父さまの家には…どれくらい前から仕えていたの?」
「そうね、まだダグラス様が二十代の頃からここにいたから…何十年になるかしら…若い頃のダグラス様はとても美男子でご夫人たちの注目の的だったのよ」
「お義父さまは今でもカッコイイわっ!」
力説するように言ったあたしに、メアリはくすくすと笑った。でもあたしは本当にそう思っている。どんな男の人よりも一番お義父さまがカッコイイってそう思っているから。
「そうね、今でも勿論素敵ですよ。でもその頃はご婦人たちのアプローチが凄くて大変だったのよ」
「でもお義父さまは結婚なさらなかったのは…どうして?」
何時も疑問に思っていた事だった。けれども直接お義父さまに聴く事は出来なかったから。そんな事を聴いて少しでも気を悪くしたりしたら…嫌だから。
「それはやっぱり王家に仕える忠誠心と国を思う気持ちが強かったせいでしょうね。お陰で女性には目を向けずに、仕事に一途で」
「お義父さまらしいわ。お義父さまの事だから、きっと一つの事に打ち込むと、他の事まで手が廻らないのでしょうね」
「そうよ、でもね。でももしかしたら今からが春かもしれないからね」
「―――え?」
メアリの言葉に一瞬。一瞬心臓が、どくんっと鳴った。それはちくりとした痛みとともに。痛みと、ともに。
「フフフ、今日は三軍将様が揃われる日だから」
「…三軍将?……」
その名前はメイドたちから聴いていた。お義父さまはその中でも大将軍と言われるエトルリア軍の重心だとも。この国の一番強い騎士の人達だって。
「そう言えば若いメイドたちが騒いでいたわ。確かパー…えっと?」
「パーシバル様でしょう?あの方はお若いのにもう騎士軍将の地位までお昇りなっている…エトルリアきっての騎士ですよ。おまけにあの美丈夫と来れば若い娘は放っとかないでしょうね」
「…お義父さまの方が…素敵だわ……」
「本当にララムちゃんは、ダグラス様が好きなのね。娘と言うよりもそれじゃあ恋人のようだわ」
「――――」
恋人、そう言われてあたしは一瞬。一瞬だけ躊躇ってしまった。何時もなら明るく笑ってそんな事ないよとふざけながら言えたのに。言えた、のに。
「まあパーシバル様はともかく…セシリア様がね」
「…セシリア?……」
「魔道軍将の方ですよ。とてもお綺麗な方で…」
「その人が…どうしたの?」
あたしは顔で笑いながらも、気持ちはどきどきしていた。どうしてこんなに心臓が鳴っているのか分からない。分からないけれど、ひどく。ひどく胸が詰まって。ひどく胸が痛くて。
「私の睨んだところだとどうもセシリア様はダグラス様に気がある様子で…まああのダグラス様の事ですから気付いていないようですけど」
「…そ、それってメアリの勝手な推測でしょっ?!」
「でもセシリア様のダグラス様を見る目が違いますもの…それにあんなに綺麗でしっかりしたお嬢様なら幾らでもダグラス様の元に来て欲しいと…ララムちゃん?」
黙ってしまったあたしを心配そうにメアリは見下ろした。分かっている、メアリは全然悪くない。お義父さまにとってそんなに素敵な女性がいるならば上手くいって欲しいとそう願うのは当然だ。けれども。けれども。
「…そうしたら…あたし……」
あたしの居場所が…なくなっちゃう…やっと手に入れた大事な場所が…なくなっちゃう…そう言おうとして口を噤んだらメアリがそっと。そっとあたしの頭を撫でてくれた。そして。
「大丈夫ですよ。ダグラス様は何よりもララムちゃんを大切にしているから。私の目から見ても本当の親子よりもずっと…ずっと深い愛情を注がれてますよ」
「…うん……」
あたしはメアリを心配させないようにこくりと頷いて、そう答えた。けれども。けれどもそれでも胸の痛みは消える事がなかった。そう、消える事はなかった。だって。だって、あたしは…。
「ダグラス将軍、お久しぶりです」
長い碧色の綺麗な髪。透き通るほどの白い肌。
「セシリアか、どうだった遠征は?」
大人の女の人の、柔らかい微笑み。丸びを帯びた女らしい身体。
「大変でしたわ。でもやっと一人前の将軍になれた気がします」
そしてお義父さまと並んでも。並んでも全然違和感がなくて。
「そうか、それはよかった」
むしろそこだけが違う空気のようで。あたしが入ってゆけないほどの。
「ダグラス将軍のおかげですわ。私がここまで来れたのは」
あたしが入り込む隙間が、何処にもなくて。何処にも、なくて。
綺麗な人。綺麗な女の人。あたしとは違う。あたしとは全然違う。きっと一番綺麗な星の下で生まれた人。あたしみたいにいっぱい。いっぱい穢れてなんかなくて。あたしみたいに汚いものなんて何も知らなくて。
白い肌と、柔らかい笑みと、そして。そして大人の女の人。がりがりのあたしの身体とは違う、柔らかい女の人。
「…お義父さま……」
呟きは小さすぎてふたりまで届かなかった。
あたしは小さすぎて、ふたりには届かない。
どんなに追いかけても、絶対に届かない。けれども。
…けれども。けれどもあたしは。あたしはお義父さまの事が……
「…好き…お義父さま……」
好きだった。あの瞬間から。あたしを見て微笑ってくれた瞬間から。
あたしは生まれて初めて。初めての恋を、した。
――――どうにもならなくて、どうにも出来ない恋を…した……