生まれて初めて、自分を好きになれた日。
綺麗な服も暖かい部屋も、そんなものよりも。
そんなものよりも、あたしは。あたしは。
その目尻の深い皺が、微笑ってくれた事が何よりも嬉しかった。
微笑ってくれたの。あたしが存在する事で。
あたしがここにいる事で、微笑ってくれたから。
だからあたし、自分を好きになれた。そんな笑顔をさせられる自分を好きになれたの。
見えない鎖で繋がれながら、それでも踊り続けるしかあたしにはなかった。踊る事は、好き。踊っていることは、好き。こうして皆があたしの踊りで喜んでくれるのは、元気になってくれるのは嬉しい。けれどもその先の。その先の男達の欲望が嫌だった。
踊り娘はただひたすらに踊り、自分を買ってくれる男を待つ。高値で買ってくれる男を捜す為に、わざと淫ら踊りを踊る。それが、嫌だった。
本当は心の赴くまま、この想いのまま、踊っていたかったのに。
けれどもそうしなければお金にならないから。男達に買われなければ、踊り娘に食事は与えられない。一定以上の賃金を稼がなければ、全て親方に持っていかれてしまう。だからこの身体で稼ぐしかなかった。
「今日の男は最低だったわ、変な事ばかり強要するんだもの」
「でも金回りは良かったんでしょう?」
「ええ、たんまりと稼がせてもらったわ」
「ならいいじゃないの。私なんて今日は全然よ」
「フフ、きっと明日は稼げるわよ」
先輩たちの会話を聞きながらあたしはおばさんから差し出された夕食を口にしていた。今日も何とか食べ物にありつける事は出来た。けれどもまだ少女の痩せた身体のあたしには、それほど男達の指名はこなかった。だからこうして食事にありつけるのが精一杯だった。
「ララムちゃん、少し多めに入れておいたからね」
踊り娘の中でも一番年下だったあたしに、おばさんは特に親切にしてくれた。まだ少女なのに可哀想にと、何時も言ってくれた。
「ありがとう、おばさん」
普通だったら何も知らずに無邪気に遊んでいる年頃なのにと。皆から愛され一番しあわせな無邪気な年頃だと。そう涙を浮かべながら、おばさんは言ってくれる。でもね。でも、あたし。
「美味しいよ、ありがとう」
何時かもしも。もしもここから抜け出せることが出来たなら、誰かが救ってくれたならば。その時こそは無邪気になろうって。子供になろうって。年相応じゃなくていいから、今まで出来なかった分、たくさん。たくさん子供になろうってそう思っていた。
―――そんな小さな夢を見るくらい、許されるよね……
そして、それは突然やってきた。悲鳴と、叫び声と、そして断末魔の声が。
「ララムちゃんっ!逃げるのよっ!!」
突然軍隊が街を襲った。あたしたちが稼ぎの為に在留していた小さな街が、大きな軍隊によって襲われる。
「逃げるならおばさんも一緒にっ!」
廻りは一面火達磨になって、軍人達は笑いながらそこにいる人たちを殺してゆく。男は嬲り殺され、女は男達に強姦されて、そして殺されてゆく。
「いいから、逃げるの。おばさんは大丈夫だから」
あたしの身体を隠すようにおばさんは立つと、宿屋の裏口からあたしの身体を突き飛ばした。そしてやってくるであろう軍隊の前に立つ。扉を閉めながら。
「いやっおばさんっ!一緒にっ!一緒に逃げるのっ!!」
扉を叩いてもおばさんは出てこなかった。その代わりに涙声であたしに言った。あたしに、言った。
――――逃げるのよ、と…未来を手に入れるのよ、と……
おばさんにはララムちゃんくらいの子供がいたのよ。
でもね、貧しくて。貧しくてどうにもならなくて、だから。
だからおばさん子供を…売ったの…ララムちゃんと同じ目に合わせたの。
だからね、これは。これはおばさんの罰なのよ。だから、ララムちゃん。
逃げて。お願いだから、逃げて生きて。そして。
そして少しでも…おばさんの罪をね…償わせて……
「…いや…おばさん…いやああああっ!!」
足音が近付いてくる。その音を聴きながら、あたしは逃げた。おばさんを置いて…逃げた。このまま。このまま一緒におばさんと死のうと思いながら、そう思いながらも脚は自然と駆け出していた。視界は涙で雲って何も見えなくて、ただ闇雲に。闇雲に駆けて、そして逃げた。
「…おばさん…おばさん……」
あたしはそれでもきっと。きっと生きたかった。大事な人を失っても、それでも生きたかった。
おばさんがくれたもの。あたしにくれたものを、無駄に出来なかった。
そう、出来はしない。こうして生きろと言った想いを、あたしは絶対に無駄に出来ない。
それならば。それならば、あたしは。あたしは生きよう。どんな事をしても生きよう。
それがおばさんに対するあたしが出来るただひとつの事ならば。どんなになっても生きてやる。
どのくらい走っていたのか、自分でも分からない。足の裏の皮はぼろぼろになって、つま先からは血が滲んでいる。踊り子の衣装のまま逃げてきたせいで、ひどくみすぼらしかった。それでも。それでもあたしは死ぬわけにはいかない。どんな理由であろうとも、あそこからこうして。こうして逃げ出し、今。今自分の脚でこの地上を歩いているのだから。
「…お腹…空いたな……」
零れた言葉が現実的であたしは笑った。乾いた笑いを口に浮かべた。こんな時に出てくる言葉がこれならば、あたしはきっと。きっと生きる事を諦めないと。食べたいと言う想いが、ちゃんとある限り。
「…空いたよ…お腹……」
もう一度あたしは言った。望みを言った。その瞬間視界が反転し、あたしはその場に崩れ落ちるように倒れた。
差し出された、手。ただひとつの手。
傷だらけの、大きな手。厚い、手。
その手だけが、あたしの全てになる。
――――あたしのただひとつの、世界になる……
声が、聴こえる。男の声。親方の、声?
――――将軍…何を……
一人じゃない。複数の声が、する。じゃあ。
――――連れて帰る。
じゃあ、ここはステージなのかな?値踏みしている男達の声?
――――ってこんな見ず知らずの下賎な娘など放って!
叩く音が、する。あたしまた親方に叩かれているの?
――――命に下賎も何もないっ!二度とそんな口を聴くなっ!!
いや叩かないで。もう痛いのは、いや。あたしちゃんと。ちゃんと踊るから。
――――こんなになって…若い娘が…まだ少女なのに……
ちゃんと踊るから。踊るからもう、ぶたないで…ぶた……
「…こんなに…やせ細って……」
ふわりと、大きな手が。暖かい腕が、そっと。
そっとあたしを。あたしを、包み込む。
暖かい優しい腕が、あたしの身体を。
あたしの、からだを、つつみこむ。
ねえ、これは。夢?夢なのかな?
それとも天国からお父さんがあたしを抱きしめにきてくれたの?
だったら、このまま。このまま醒めないで。
ずっとずっと、その腕を、その手を、あたしに。
――――あたしに…触れていて……
「…おとう…さ…ん……」
あたたかいよ。とても、あたたかいよ。
そしてやさしいの。やさしい、の。
あたしずっと。ずっと、ほんとうは。ほんとうはさびしかったの。
あきらめきれなくて。いきることをあきらめきれなくて。
それは。それはね、いつか。いつかあたしにも。こんなあたしにも。
こうして包み込んでくれる暖かい手が、差し伸べられるって…何処かで願っていたから……