星屑の涙・3

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生まれてきた命に、いらないものなど何処にも無い。
どんな理由であろうとも、そこにある命が。どんな生まれであろうとも。
命に違いも、優劣も何もない。そこにある事が。そこに存在する事が。
何よりも大切で、何よりもかけがえのないものだから。


――――こうして生きている命に…懸命に生きている命に違いなど何も無い……



身体は泥まみれで、つま先からは血が流れていた。素足のまま靴も履かずに、汚れて傷だらけの脚。そして明らかに身分の分かる、踊り子の衣装。
「…ダグラス将軍……」
抱きかかえた身体は今にも折れそうなほどに細かった。ろくな物を食べていないのだろう。鎖骨が浮き出て、だらりと下がった腕は哀しいほどに細かった。
「―――連れて帰る」
その身体を抱きかかえたままわしは待たせていた馬車に乗り込んだ。先ほど怒鳴りつけた部下はまだ少女の事を怪訝な目で見ている。行き倒れの死に掛けの少女など、この世の中何処にでもいるんだとでも言うように。
確かにこんな時代だ。この少女もその中の独りにしか過ぎない。沢山の消えてゆき、踏み躙られる命の中のひとつでしか。

けれどもわしは。わしはだからと言ってそれを見捨てる事など出来はしない。

意識が一瞬だけ戻り、そして。そしてそっと微笑った。子供のようなひどく無邪気な顔で微笑って、そして。そしてわしに向かって言った。――――おとうさん、と。
理由など分からない。この少女に何が起こったのか、どんな生い立ちなのか。どうしてこんな所で倒れていたのか。けれども。けれども彼女は言ったのだ。わしに、告げたのだ。


『おとうさん』、と。


こころの叫びが、聴こえた。
生きたいんだと、聴こえた。
微かに伸ばされた手は、確かに。
確かにわしには光を掴もうと。
未来を掴もうとしているように、見えた。


――――その指先が『生』を、掴もうと……


その声を聴いたから。こころの声を、聴いたから。だからわしは絶対に。
絶対にその命を見捨てたりはしない。見捨てる事など出来はしない。
生きようと懸命にもがいている命を、わしは決して見過ごす事など、出来はしない。



「…こんなになって……」
手には無数の擦り傷が。脚は皮が捲れてぼろぼろになっている。綺麗な杏色の髪は泥に塗れ、そして華奢な身体は痣のようなものが散らばっていた。
「辛かっただろうに」
せめてもと髪についている泥を落とし、顔を拭ってやった。そうして見下ろした顔は本当にまだあどけなさを残している。いやまだ子供と言ってもいいほどに。
「…可哀想に…よっぽどひどい目にあってきたのだろう……」
戦いとエトルリアの未来の為に、結婚も子供も作らなかった。今更この年になってそう言った事を望みはしなかったけれど。けれども、もしも。もしも自分に子供がいたならば、きっとこの胸の痛みも、もっと。もっと苦しいものになったのだろうと思う。
今でもこんなにも苦しく、もどかしいのに。子を持つ親ならば、もっと胸が痛いのだろうと。
「…もう大丈夫だ…わしが…お前を……」
護ってやる、そう言おうとして言葉を口の中に飲みこんだ。その言葉を告げたいと思った人間は自分にとってエトルリアの王と王子の二人だけだった。それ以外にこの誓いを自分が立てる事になるとは思いもしなかった。けれども今。今その思いが確実に胸の中に広がっている限り。

忠誠とは違う別の想いで『護りたい』と願っている限り。


揺れる馬車の中で振動が身体に負担をかけないようにと、ずっと身体を抱いていた。
「…お前を…護ってやる……」
小さな腕の中の命を。小さくても懸命に咲いているこの華を。
「…わしが…お前を……」
枯らさないように、と。枯れないように、と。ただひたすらに祈るように、願った。



暖かい腕が、ずっとあたしを暖めてくれた。
欲望に塗れた男の腕じゃない、腕が。ただそっと。
そっと労わるように、あたしを包んでくれた。
セックスなしで、こんな風に男の人の腕で。
こんな風に眠れる事も、抱いてくれる事も。
あたしはなかったから。あたしは知らなかったから。


気付いたら独りだった。ひとりぼっちだった。
あたしにはないから。お父さんの腕もお母さんの手も。
どっちも持ってはいなかったから。どっちもなかったから。
だからこんな風に。こんな、風に。


――――優しくて暖かい腕を、本当にあたしは知らなかったの。


何もいらない。もう、何も欲しくない。
だからこうしていて。こうして、いて。
あたしもう何もいらないから。だから。
だから、お願い。この手を離さないで。


ずっと願っていたもの。ずっと諦めていたもの。ずっと…欲しかったもの……




目覚めた瞬間、あたしの瞳に飛び込んできたのは、ただひたすらに。ひたすらに綺麗な涙、だった。
「…あ……」
声を出そうとしても何故か上手くゆかずに、あたしは自分の頬に落ちた熱いものの感触だけを感じていた。
「――――よかった…目覚めたか……」
初めはあたしが零した涙だと思った。自分のために泣けなくなったあたしの涙かと。けれども違っていた。それは、違っていた。

――――あたしの為に流してくれた…他人の涙、だった……


今思えば、あたしはひどく憐れな子供だったのかもしれない。
「…何で…泣いているの?…」
どうしようもない程に憐れで、そして哀しい子供だったのかもしれない。
「…お前が目覚めなかったらと思ったら……」
貴方にとってあたしは、そんな。そんな子供に見えたのだろう。
「…何で泣くの?…こんないらない命の為に……」
ちっぽけで、そして。そして他人すら信じられない、憐れな子供に。



目覚めた少女の言葉にわしは言葉を失った。こんな子供にそう言わせるものがこの国に存在しているのかと。そしてこんな言葉を告げてしまう少女にわしは何も出来ないのかと。
「――――いらない命なんて何処にもない…わしは……」
いい年をしてわしは泣いていた。涙などとうに置いてきた筈なのに。気付けば目の前の少女よりも子供のように、泣いていた。
「…わしは…こんな子供も救えない程無力なのか……」
上半身を起こし呆然とわしを見つめる少女が。小さな少女があまりにも哀しく。わしには、どうしようもない程に切なくて。
「…わしは…何も…出来ないのか?……」
耐えきれずにその身体を抱きしめ。抱きしめ、わしは声を殺して泣いていた。自分の無力さと、少女への哀しみに。



抱きしめる腕は、暖かい。抱きしめてくれる腕は、優しい。それは他の男達とは違う。違う、腕。それはあたしが。あたしが、ずっと。ずっと欲しかったもの……。
「…どうして?……」
あたしよりも大きくて、あたしよりも強くて。そしてあたしよりも、ずっとずっと大人なのに。
「…どうして…泣いて…くれるの?……」
それなのに、肩を震わせ泣いている。あたしの為に、泣いている。他人のあたしの為に。名前すら知らないあたしの為に。泣いて、くれる。
「…どうして…ねぇ…どうして?……」
あたしのためだけに、ないてくれたひと。あたしのためだけに、ないてくれる、ひと。


「…どうして…ねぇ…どう…して……」


その先の言葉は声にならなかった。いつしかあたしの頬にも熱いものが溢れていた。自分の為に泣けなかったあたしの頬に。もう涙なんて枯れて何処かに行ってしまったあたしの頬に。


――――零れる涙。零れ落ちる涙。


あたしは何時しか声を上げて泣いていた。
生まれたての赤ん坊のように、大きな声で。
後から後から嗚咽が零れ、そして。
そして叫んでいた。泣きながらこころで、叫んでいた。




―――――生きたい、と…そう叫んでいた……