ただひとつ、あたしに差し出された救いの手。
あの日から、あたしは生まれた。あの日から、あたしは生きている。
あの瞬間からあたしという命が、再生された。あの瞬間、から。
―――ただひとつ、あたしに伸ばされたその手だけが。
何でも出来るって思った。どんな事でも出来るんだって思った。
ぼろぼろでちっぽけで捨てられるだけのあたしを、見つけてくれた手。
傷だらけの、かさかさの、けれども何よりも優しい手。
この手があたしに触れてくれさえすれば、あたしはどんな事だって出来るって。
そばに、いられるだけでいいって。
少しでも役に立てる事が出来ればそれだけでいいって。
それ以外の事は何も望まないから、だから。
だからあたしを。あたしをそばに、置いていて。
――――どんな事でもするから…もうあたしを独りにしないで……
ちっぽけな命だった。何時殺されても、死んでも文句の言えないほどの、小さな小さな命だった。
「ってもっと色っぽく鳴けよ、こっちは大枚叩いてんだからよ」
こんな命なんて何時でも捨てられると思っていた。それでもあたしは生きていた。空っぽなのに、何もないのに、生きていた。
「…ふっ…ああっ!……」
まだ生理すら来ていない時から、あたしは男達の玩具にされていた。孤児だったあたしを拾った親方は、踊り子としてあたしを育てた。胸の膨らみがやっと出てきた頃に、親方の手によって水揚げされ、それ以来こうする事でお金を手にする事を覚えさせられた。
「ほら、腰振ってサービスしろよ」
「…あぁっ…あぁぁっ!……」
あたしを乗せ下から突き上げてくる男の顔を、薄目を開けて見下ろした。いい年をした、中年の男。家に帰ればあたしぐらいの年の娘がいそうな、男。
そんな男があたしの身体を欲望のための玩具にしている。それが当たり前だとでも言うように。踊り子だから、当たり前なのだと。そうするのが、当然だと言うように。
「…やぁっ…あぁ…もおっ…もぉっ……」
あたしは涙を零しながら哀願した。それも親方や先輩の踊り子から教わった事。そうする事で男の欲望を煽り射精を早める事で、自分の体力を温存する事と。大して感じなくてもわざと感じる振りをする事と。そうする事で身を護れ、と。
「へへへ、もう限界か、しゃーねぇな。ほらよ」
「ああああっ!!」
限界まで突き上げられ、あたしの膣の中に男の欲望が吐き出される。あたしはそれをわざと大げさに感じる振りをして受け止めた。
あたしは踊り子。あたしは男の欲望の玩具。
人間じゃない。同じ、人間じゃない。
それ以下のもの。何をしても、いいもの。
親も肉親もないあたしは、何もない。だから。
だから何もしてもいい。何をされても文句は言えない。
誰もあたしが死んでも哀しむものはいないから。
――――それでも生きている。あたしは、生きている。小さく震えながら。
「ララムちゃん、大丈夫かい?」
ぐったりとして戻ってきたあたしに心配そうな表情が向けられる。あたしの唯一の心の支えだった。その時の、あたしのただひとつの。
「…平気よ、おばさん。あたしは元気」
踊り子達の身辺の世話や食事を世話してくれるおばさん。あたしたちを心配してくれる唯一の人。こうやって若い娘が玩具にされるのをずっと見てきたおばさん。優しい、おばさん。
「―――ララムちゃん……」
柔らかい手があたしの頬を包み込む。もしお母さんがいるならきっと。きっとこんな手なんだろうと思った。こんな、暖かい手なんだろうと。
「あたしに力があれば…こんな所から…逃がしてあげられるのに…」
「いいの、おばさん。気持ちだけで充分よ。それにあたし、ここを出たら生きてゆけないもの」
優しいおばさん。小さなおばさん。身体は大きいけれど、でも小さいの。あたしと一緒。一緒なの。やっぱり小さくてそして周りから見たらちっぽけな命なの。でもね。でも、あたし達生きているんだよ。こんなに小さくても。
「…ララムちゃん…いい子だよ…あんたは誰よりもいい子だよ…どうしてこんないい子が……」
大きな肩を小さく震わせて、あたしの為に泣いてくれた。あたしの為に、泣いてくれる。もしもあたしが死んだら、おばさんだけは…哀しんでくれるって信じていいよね。
生きている。あたしは生きている。
こんな抜け殻のような毎日で、それでも。
それでも生き続けるのは、何処かで。
こころの何処かで、あたしは捜していた。
捜していた、から。きっと何処かで。
―――――あたしを何時しかここから救い出してくれる手を……
泣きじゃくるおばさんの背中に手を廻しながら、あたしは何時しか自分が泣けない事に気付いていた。何時からかあたしは本当に泣けなくなっていた。哀しい事はいっぱいあったのに。ううん、いっぱいありすぎるから、きっと。きっと麻痺してしまったんだろう。
『――――いらない命なんて何処にもない…わしは……』
あたしの為に、泣いてくれたひと。おばさん以外に泣いてくれた、ひと。
『…わしは…こんな子供も救えない程無力なのか……』
名前すら知らないあたしの為に。おばさんよりも大きな身体で、震えながら。
『…わしは…何も…出来ないのか?……』
ぼろぼろになったあしたの身体を抱きしめて、そして。そして泣いてくれた。
あたしの為に、泣いてくれた。何の見返りも、何の要求も、なく。ただ泣いてくれた。
あの日から、あたしは生まれた。その腕の中で、生まれた。
ちっぽけでぼろぼろのあたしは。その腕の中で、再生された。
―――――ただひとつの…差し出された手によって……